2013年7月7日日曜日

Wimbledon 2013 決勝直前 ジョコビッチvsマレー

つい先日、テニスは個人スポーツであり、国を背負うモノではないだろうという事を書いた(こちら)。とは言え、今年のウインブルドンの男子決勝はそうはいかないだろう。伝統ということをこれほど重んじる英国で、伝統をそのままテニスの大会にしたようなウィンブルドンという大舞台で、マレーが背負うものはあまりにも大きい。

マレーは、昨年、テニスのレジェンド(伝説)になるであろうフェデラーに決勝戦で敗れ、自らの力でこの大舞台をさらにドラマチックなものに演出してしまった。もちろん、意図的な演出ではない。

マレーのことを、少々気の毒にも思う。マレーは、決勝に勝ちたいという気持ちではなく、勝たなくてはならないという気持ちで、決勝戦に望まねばならない。今回のウィンブルドンの道は楽なものではなかった。決勝戦までにマレーは苦戦をいくつか乗り越えてきた。マレーの精神の糸は、きっとぎりぎりのところまで張りつめており、今まさに切れかかっているだろう。

もしマレーが今年も優勝できなかったら…。マレーのその気持ちを考えると、応援というよりも同情に近い気持ちになってしまう。

私は、もう一つ、この決勝戦に期待していることがある。それは、次の10年の男子テニスのカタチを占う戦いになるのではないかという事だ。

男子のテニス界はかつてのサーブアンドボレーは全く影を含め、グランドストロークを中心としたオールラウンドな戦法をほとんどのプレーヤーが採用している。かつてのトッププロは何か苦手なショットがあったものだが、今のプロテニスプレーヤーはちがう。どのプレーヤーも、あらゆるプレーを驚くほど高いレベルで打ってみせる。特に、トッププレーヤーは、体の使い方も見事で、肉体のポテンシャルを限界に近いところまで使っているように見える。

その意味では、すでに、ジョコビッチもマレーもあまりにも完成度が高く、どこに「伸びしろ」が残されれているのだろうかと思うほどだ。まして、ウィンブルドンの決勝戦だ。プレーの完成度は驚くばかりに高く、二人の肉体と精神は想像がつかないほど研ぎ澄まされるだろう。その中では、ほんの少しの差しかなく、その差が試合の勝者を決めるのだろう。

10年かけて男子のプレースタイルはグランドストローク中心に変化した。次の10年で、男子テニスの、ウィンブルドンのテニスがどう変わっていくのか。今の方向性にプレーの発展の可能性があるのか。それとも、新たな技術の展開が見られるのか。

決勝をしっかりと見定めようと思う。さあ、決勝戦の始まりだ!

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