神様は、2013年ウィンブルドンでドラマチックな方の結末を選んだ。77年ぶりのイギリスプレーヤーの優勝。イギリス国民ではない私でも、国民の興奮の程度は想像に難くない。
マレーは、どちらかというとドライなタイプなので、ウエットに国民と喜びを分かち合うというイメージはない。恐らく、1983年の全仏オープンで37年ぶりにフランス人選手(ヤニック・ノア)が優勝した時とは、かなり違うのだろう。ヤニック・ノアは、誰にでも愛される陽気で愛らしいキャラクターだった。マレーは、それと比べると、修道僧を思いおこされるいでたちだ。
マレーの優勝スピーチは、正直なところ、優勝した今年よりも負けた昨年の方が感動的で印象的だった。マレーという選手は、人物は、そういうタイプなのかもしれない。わが道を行く。自分のために戦う。国民に対して責任を感じても、国民に対して自分をアピールすることはない。マレーの優勝の言葉は、77年ぶりのイギリス人の優勝を国民と分かち合う気持ちよりも、なんとか優勝して国民の非難やがっかりした気持ちにさらされなくて済むという安堵の気持ちの方が、はるかに強かった。
フルセットになれば接戦で面白いとは限らない。3セットで決着がついても面白い試合もあるし、フルセットでもみごたえのない凡戦もある。ただこの決勝戦は、3セットで勝負がついたからというわけではなく、あまり面白い試合だとは思わなかった。これは正直な気持ちだ。決勝戦直前に書いたブログで、グランドストロークをベースとするプレースタイルの限界を極めつつあるジョコビッチとマレーが、次の世代のテニスの姿を見せてくれるのではないかと期待した。その期待に、ジョコビッチは応えてくれなかった。
それにしても、ジョコビッチの執拗なまでのドロップショット。なぜあそこまで、ジョコビッチはドロップショットにこだわったのだろうか。確かに、第3セットでは数ポイント連続で同じ場所にドロップショットを落とすことでマレーを崩しかけたシーンはあった。しかし、それはあくまで目先を変える、流れを変えるショットでしかなかったはずだ。ジョコビッチはその後もドロップショットを打ち続け、そしてポイントを失い続けた。
結局、ジョコビッチは、この試合では次世代テニスがどのようなものなのかを示すことはなかった。
一番印象的だったのは、ジョコビッチが左右に攻めるボールに対して、マレーはそれを見事に切り返していたことだ。昔だったらこれだけ左右に攻められたら「ねばってボールを返す」ところを、マレーは「次に攻められることはない」レベルのボールを相手のコーナーに返球できた。エースやポイントにはならないが、しかし、確実に相手の攻撃をかわしていった。ジョコビッチがいくら左右に攻めても、最後まで攻めきれない。ミスもしない。それは、ある意味では、「守りのテニス」の究極の姿なのかもしれない。
もし、このようなテニスが標準的になるとすれば、ベースラインからの横(左右)展開のテニスでは勝つことができなくなる時代が来るのかもしれない。かつて、ウィンブルドンはサービスダッシュ、ネットダッシュを中心とした縦(前後)のテニスが主流だった。それが、ベースラインを中心とした横のテニスに変わった。多くのプレーヤーのテニススタイルは、自分のベースラインを左右(横)に守り同時に相手のベースラインを左右に攻めるスタイルとなった。しかし、今日のマレーのプレーが「あたりまえ」になると、横のテニスは転換を迎える。
すると、最後に来るのは、縦と横を組み合わせたテニスになるのだろうか。縦と横を組み合わせるテニスとは、どんなテニスなのだろうか。
⇒ Wimbledon 2013 決勝直前 ジョコビッチvsマレー
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