プロ野球・広島東洋カープの前田智徳が引退会見を開いた。いよいよ、来る時が来たのかと思った。
プロ野球とプロテニス、日本と世界、全く違う土俵で、違う時代に戦っていて、おそらく互いのことは知らないであろう前田とメシール。しかし、その美しいプレースタイルと、選手生活の最後を怪我との戦いで終えたという点で、この二人に共通の何かを見てしまうのは私だけだろうか。
私は、野球の打撃理論は分からないが、前田のバッティングフォームが美しいことはよく分かる。ここがこうだからというのではなく、ただ美しい。それは、メシールのテニスと同じだ。本当に美しいものは、誰にだってそれがわかるのだ。美しさを感じだけならば、専門家である必要はない。
もし私がテニスではなく野球をしていたら、きっとメシールの代わりに前田のバッティングフォームを分析したことだろう。前田のバッティングフォームは、そう思わせるものだった。誰か、これまでに分析した者はいるのだろうか。私がなぜこうまで美しいと感じるのか、誰か教えてほしい。
実は、私は前田の記者会見やインタビューには、引退記者会見を含めても、ことばの含蓄というものを感じない。落合博満やイチローの様に、ことばが示唆に富んでるわけではない。前田を求道者と呼ぶことがあるが、プロに徹しているだけのように思う。むしろ、ことばが豊かではないために、モノ言わず努力する求道者に見えるだけなのではないか。
前田のことばには、ただ、怪我との戦いの苦悩と焦りと、自分に対するいらだちとあきらめがあるだけだ。それは、どちらかというと、求道者というよりは、治癒が期待できない闘病者の言葉に近い。前田のことばから感じるのは、含蓄ではなく、焦りだけだ。
よく知られている「前田智徳はもう死にました」ということばは、究極の一人称目線だ。自分を、野球を客観的な目で見ることができる落合とは全く違う。前田は優秀なマネージャー(たとえば監督)になることはないだろう。前田は、一人のプレーヤーでしかない。
だからこそ、そのプレーの美しさは際立つ。生き方や考え方から、その話す言葉からは感銘を受けないという事は、純粋にそのプレーがすばらしいという事だ。皮肉にも、豊かとはいえない前田の言葉や態度が、前田のプレーの真の美しさを証明している。
あの美しい打撃フォームを見れなくなるのは寂しい。怪我は別とすれば、年齢的なものを全く感じることがなかったのが前田の打撃フォームだった。私には、この20年間で前田の打撃能力が全く変わっていないように見えた。実際、打席数は少ないというものの、前田は40歳を超えても3割を打っている。年齢は関係ないと言いながらも、明らかにこの数年間で打率を落としている30代後半のイチローとは違うのだ。(戦う土俵が違うので二人を比較はできないのは当然だが、両者を自分たちの若いころと比較することはできる。)
年齢を理由に引退する前田のイメージは、私には持てなかった。引退直前のメシールもそうだった。そのプレーを見る限り、年々技術を極めつつあった。40歳になってもプレーできるのではないかと、メシールのプレーを見ていて思った。50歳になってもバッターボックスに立つ前田のイメージも、同じように私は持っていた。
そこにはおそらく、センスや感覚と言った抽象的で感覚的なものではない、確かな技術があるからなのだろう。ゆるぎない技術があれば、年齢はあまり重要ではない。
であれば、誰かがその打撃技術を分析し、誰かがその技術を引き継ぐべきだ。野球選手であれば、野球に精通する者であれば、それができるはずだ。私がメシールのプレーを、その技術を後世に残したいと心から思っているように。
⇒前田智徳とイチロー:目指す場所が異なる二人の”天才”
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