2013年1月20日日曜日

錦織 vs フェレール 全豪オープン2013

普段はメシールのビデオばかり観ている私ですが、今日はひさしぶりにプロテニスの試合をじっくりとテレビ観戦しています。全豪オープン4回戦の錦織対フェレールです。

今、これを書いている時点で、錦織は2セットダウンで2-3ですので、ここからカムバックするのは難しいかもしれません。フェレールの守りは鉄壁で、錦織がいくら攻めても、ボールは返ってきます。かつての全仏オープンのヴィランデルを思い出しました。

が、しかし、錦織とフェレールを比較すると、見ていて面白いのは明らかに錦織です。錦織のプレーはイマジネーションにあふれ、相手をどう動かして崩すか、相手にどう予測させないか(予測させないように隠すか)を考えながらボールを打ちあいます。

私は、スポーツの試合は原則的に個人(またはチーム)のものだと思っています。日本人選手だからと言って錦織を応援するという事は考えたことがありません。それでも、錦織は一人のプレーヤーとしてユニークで魅力的な選手だと思います。

正攻法で攻めるボール、相手の逆を突くボール、リスクの低いボール、リスクの高いボール…様々な要素を織り交ぜて、錦織はボールに向かいます。

フェレールは、相手が攻めることが難しいという条件の下で常に最もリスクが低いボールを選択します。言い換えると、ミスしないまたは攻撃されない範囲の一番安全なボールを打とうとするわけです。素人の私ですら、錦織が打ったボールをフェレールが次にどこに打ち返すか、打つ前から分かってしまうほどです。

ゲームの中で、錦織はリスクの高いボールと低いボールを織り交ぜながら、様々なパターンでポイントを取りに行こうとしています。が、この試合ではその戦略がなかなかうまくいかず、自分からミスするシーンが多くなり、結果的に劣勢になっています。錦織の場合、例えばナダルのようにパワーでポイントを取ることは難しいため、どのポイントも組み立てと戦略でポイントを取らねばなりません。フェレールのフットワークにボールを拾われてしまい、思うような結果にならないこともしばしばです。

もし、錦織がこの試合に負けてしまうとしても、私はこの戦略を変えてほしくないと思います。

フェレールは、試合中に紹介されましたが、これまでフェデラーとジョコビッチには全然勝てないそうです。力と戦略を組み合わせたプレーヤーに対しては、フェレールのテニスは「全く」歯が立たないのです。錦織には、そういう選手になってほしくはないと、私は思います。折角、これだけのイマジネーションがあるプレーができるのですから。

フェレールは、(フェレールには申し訳ないですが)プロテニス界においては、「フェデラーの様な歴史に残る選手または真のトップ選手の試金石」の選手なのです。フェレールのテニスの歴史での役割は、フェレールの上にいる選手と、下にいる選手を分けることなのです。

(2011年のジャパンオープンで観戦したフェレール対マレーの試合を思い出しました。スタンドから生で見てると本当によくわかったのですが、フェレールとマレーでは身体能力が違いすぎ、フェレールが勝てるという雰囲気は全くなかったのです。)

錦織は、フェレールの上にいる選手になってもらいたい。だとすれば、錦織がすることはただ一つ。戦略を含めた自分の技術でフェレールに勝つことです。フェレールにあわせたテニスをする必要はないのです。

その意味では、錦織が負けるとしても、フェレールに押し切られて敗北するのではないことが大切だと思ます。あと少し攻めきれていない、だから勝てなかった、それが大切です。この差を埋めた時に、おそらく、錦織はフェレールと言う試金石を超えたと言えるでしょう。その時は、錦織は、二度とフェレールには負けることはないと思います。

なお、フェレールの役割をこのように書くのはフェレールに対して少々残酷かもしれません。であれば、フェレールは、たとえばヴィランデルを見習えばよいと思います。ヴィランデルも、かつて、「試金石プレーヤー」でした。自分の下位選手への取りこぼしが少ないけれど、上位選手には歯が立たない時代がありました。

しかし、ヴィランデル自身が自分のプレーを改良し、ついに自分がナンバーワンになりました。すべてのプレーヤーを「自分の下」にしたのです。改善されたプレースタイルの見栄えは正直、格好いいとは言えませんでしたが、能力やセンスと違う「努力」に対して私は敬意を払います。

テニスで大切なのは、イマジネーションだと思います。なぜなら、そこには、プレーヤーの人格が現れるからです。「人格はテニスのプレースタイルを超えることができない」と思います。我々が見たいのは、テニスという姿をしたそのプレーヤー自身なのですから。

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