2013年7月16日火曜日

Mecir's Tennis (173)  コントロールこそ命(フラットドライブ系の利点を活かす)

特に、浅い球を打つ場合やアプローチショットで差が出ます。スピン系のフォアハンドとフラットドライブ系のフォアハンドの違いです。

厚いグリップのフォアハンドプレーヤーが浅いボールをスピンのかかった強くたたいでネットに着くのを見て、うらやましく思うことがあります。イースタングリップでは難しいショットです。

イースタングリップでは、したがって、それをコントロールで補います。コースを狙い、ピンポイントで狙い打ちします。

スピン系は、さすがに、ピンポイントでのコントロールは容易ではありません。(プロレベルは別でしょうが。)フラットドライブ系は、その点は有利です。その利点を活かさねばなりません。

もう、とにかく、コントロールが武器です。少なくとも、浅いボールで一発でパッシングショットを打たれるボールを打つことだけは許されません。スライス、フラットドライブを混ぜ合わせ、ストレート、クロス、逆クロスと打ち分けて、最低でも攻撃されないショットを打ちます。

そして、すぐに攻撃の態勢に入ります。自分が打ったボールを見てはいけません。相手を見ます。そして、スプリットステップで相手のロブがないと見たら、一撃でポイントを取りに行きます。

アプローチショットでノータッチエースをとろうとしてはいけません。リスクが大きすぎる~です。あくまで、コントロールで勝負です。そのためには、ラケットをしっかり振りきることです。フォロースルーが小さいくなると、必ずコントロールが効かなくなります。テイクバックは小さく手もよいですし、力の入れ具合は0:100ぐらいの意識でOKです。フォロースルーが全てです。

2013年7月15日月曜日

Mecir's Tennis (172)  サーブのフォームと野球の投球フォームの違い(サーブではどこに力を入れるか)

これまで、何度か、テニスのサーブのフォームと野球の投球フォームの違いを書いてきました。
ちょっと考えると分かるのですが、サーブと野球の投球フォームでは、決定的に違うことがあります。それは、野球では左足(右投げの場合)を上げてボール投げるが、テニスでは足を上げないという事です。

そんなの当り前…なのですが、これが、いろんなことを示唆しているように思います。

まず、テニスのフォームで(野球の)ピッチングをしたらわかるのですが、いわゆる「女の子投げ」になってしまいます。左足が地面に着いたまま(またはほとんど着いたまま)では、下半身が使えないので、上体だけでボールを投げざるを得ません。

にもかかわらず、テニスでは、力強いボールを打たねばなりません。さて、どうすればよいか。

多くのポイントがあると思いますが、いくつか、挙げてみたいと思います。
  • 腕や肩に力を入れない。
腕や肩に力を入れると、ボールを打つ力がそこに集中してしまいます。下半身が使えないテニスのサーブでは、局所的に力を入れることは、フォームが不安定になります。一球、二球はよい球がいっても、連続で打ち続けることは容易ではありません。
  • 右手首を使わない
野球の投球フォームとの大きな違いの一つは、右手首の使い方(右利きの場合)です。テニスでは、フォワードスイング(インパクト直前)までは右手首を使いません。しかも、手のひら側に曲げるので、(野球経験者はとくに)手首は固定しておくほうがよいのです。野球では、「スナップを効かせる」という言葉がありますが、手首を手の甲側に曲げて投げます。ボールをリリースする瞬間に、手首を今度は手のひら側に倒します。この癖があると、テニスではかなり苦労します。フォワードスイングで手首が手の甲側に倒れると、ラケット面が開いてしまいます。そうなると、ラケットはネット方向にスイングされ、フラットボールしか打てなくなるのです。
  • 体全体を使う
したがって、テニスの場合には、できるだけ体全体を使ってサーブを打ちます。クイックサーブは(フラット系の場合を除いては)好ましくありません。大きなフォーム、とくに大きなフォロースルーでボールを打ちます。
  • 右手首だけ、または右肘より先にだけ力を入れる。
体全体に力を抜くのはよいのですが、ラケット面の微妙な違いがボールの安定感につながります。
前述のとおり、手首を手の甲側に倒すのは、テニスのサーブでは絶対にしてはいけないことです。フォワードスイング(のインパクトに近いタイミング)までは、右手首は手のひら側に倒しておきます。このことを考えると、手首にだけは少し力を入れてラケット面を固定することが有効になる場合があります。(特に、無意識に手首を功側に倒してしまう野球経験者には有効です。)さらに、右肘から先にだけは少し力を入れて、スイングの間はラケットから腕までを固定するとサーブが安定します。
  • テイクバックでは特に腕に力を入れない
サーブでは、テイクバックで、ラケットヘッドが地面を向くぐらい下に落とします。これは、スピン系の回転のかかったサーブを打つ場合には必須です。腕に力を入れず(むしろ抜いて)、これによりラケットを担いだ時にラケットヘッドが下に落ちます。
  • ボールを打つ時は背中に力を入れる
ボールをヒットする際に力を入れるとすれば、背中(背筋)です。背中に力を入れる分には、入れすぎるという事はありません。ラケットヘッドが下に落ちているという事は、そこからラケットを振り上げなくてはなりません。それは背筋の仕事です。

2013年7月10日水曜日

Mecir's Tennis (171) 緩いボールの打ち方(続編)

フォアハンドストロークでの緩いボールの打ち方(Mecir's Tennis (124) 緩いボールの打ち方)の続編です。

緩いボールだけではなく、メシールのすべてのフォアハンドストロークに共通することですが、「ボールの後ろ(6時方向)に回り込むのではなく、ボールの横(9時方向)に回り込む感覚」が大切です。グリップが薄くなるほど、ボールに対する体の位置が6時(後ろ)から9時(横)になっていきます。バックハンドも同じで、6時から3時方向に回り込む意識が大切です。

9時(フォアハンド)に回り込むと、ボールとの距離が離れすぎてしまうのではないかという不安がありますが、そこは思い切りましょう。薄いグリップの場合は、厚いグリップと比較して腕を比較的自由に使えるので、体とボールとの距離の補正が可能です。また、必要に応じて打点を後ろにずらせることができますので、万が一振り遅れても大丈夫です。

そして、余裕があれば、左足を踏み込みましょう。これは意識しなくても大丈夫です。ボールとの距離が取れている場合は、無意識に左足を踏み込もうとするからです。オープンスタンスが全盛期の現代テニスですが、フェデラーはほとんどのフォアハンドで左足を踏み込む(または前に出す)打ち方をしています。

もう一つ、こちらは緩いボールの時に有効な手段です。厚いグリップとフォアハンドとは違い、薄いグリップは意外に緩いボールが苦手です。ラケット面が少しもぐらつかないように注意しながら、同時にラケットをしっかり振って緩いボールを強く打たねばなりません。微妙なラケット面の狂いが、特に強いボールの場合にはバックアウトやネットに直結します。

この場合に有効なのが左腕と左肩です。左腕をしっかりと畳み込んで、左肩の前に置きます。そのタイミングは、早くても構いません。たとえば、相手のボールが緩い場合、つまり時間の余裕がある場合には、テイクバックの時点で左腕をたたんでしまってもよいのです。これにより、ラケット面のぐらつきを安定化させることができます。しかも、左腕をたたむことで右腕は比較的自由にスイングができます。必要であれば、右腕のテイクバックを早めに取り、やや大きめのスイングをすることも可能です。

左腕は、特にうまく使うことが有効です。緩いボールは、ボール自身にパワーがありませんので、自分からボールに力を与えなくてはなりません。ボールに対して左ひじを突き出し、それを(下の写真のように)左脇に畳み込んでいきます。これにより、体が相対的に前に突き出されます。この突き出す力を使って(前に体重移動をしながら)ボールに力を与えるわけです。



もう一つポイントは、ラケットスイングを体の近くから外に振り出すことです。いわゆる、インサイドアウトの感覚です。ラケット面が微妙なイースタングリップのフォアハンドでは、特にラケットを強めに振りたい場合にはラケット面がぐらつきやすくなります。体とラケットが離れると、離れた分だけラケット面が不安定になります。したがって、テイクバックとフォワードスイングでは、ラケットが体の近くから出てくるほうが望ましいのです。

一方、大きなフォロースルーを取るためには、フォロースルーでラケット(右腕)が体のそばにあることは望ましくありません。フォワードスイングもフォロースルーも体のそばに腕があると、スイングの回転半径が小さくなり、大きなスイングが難しくなります。したがって、テイクバックからフォワードスイングがインサイドアウトの場合には、フォロースルーはそのままインサイドアウトを維持して、大きくからの外側にラケットを振り出すことが望ましいということになります。

インサイドアウトスイングは、下から上へのスイングとセットに考えます。ラケットは下から上に振るというのが、イースタングリップの基本です。ただしこれは十分に構える余裕があった場合(緩いボールを強く打つのは、そういう場合になると思います)のスイングであり、そうでない場合には横振りになることもあります。

まとめ:緩いボールに対するフォアハンドの要点
  • ボールに対して9時方向(ボール飛球線に対して横)に体を置くこと
  • 左手を左肩の位置に置く(写真)/スイング中でもよいがスイング前から置いてもよい
  • フォワードスイングはインサイドアウト/フォロースルーもそのままインサイドアウト
  • ラケットを下から上に振る

2013年7月8日月曜日

Wimbledon 2013 決勝 ドロップショット・ドロップショット・ドロップショット…

神様は、2013年ウィンブルドンでドラマチックな方の結末を選んだ。77年ぶりのイギリスプレーヤーの優勝。イギリス国民ではない私でも、国民の興奮の程度は想像に難くない。

マレーは、どちらかというとドライなタイプなので、ウエットに国民と喜びを分かち合うというイメージはない。恐らく、1983年の全仏オープンで37年ぶりにフランス人選手(ヤニック・ノア)が優勝した時とは、かなり違うのだろう。ヤニック・ノアは、誰にでも愛される陽気で愛らしいキャラクターだった。マレーは、それと比べると、修道僧を思いおこされるいでたちだ。

マレーの優勝スピーチは、正直なところ、優勝した今年よりも負けた昨年の方が感動的で印象的だった。マレーという選手は、人物は、そういうタイプなのかもしれない。わが道を行く。自分のために戦う。国民に対して責任を感じても、国民に対して自分をアピールすることはない。マレーの優勝の言葉は、77年ぶりのイギリス人の優勝を国民と分かち合う気持ちよりも、なんとか優勝して国民の非難やがっかりした気持ちにさらされなくて済むという安堵の気持ちの方が、はるかに強かった。

フルセットになれば接戦で面白いとは限らない。3セットで決着がついても面白い試合もあるし、フルセットでもみごたえのない凡戦もある。ただこの決勝戦は、3セットで勝負がついたからというわけではなく、あまり面白い試合だとは思わなかった。これは正直な気持ちだ。決勝戦直前に書いたブログで、グランドストロークをベースとするプレースタイルの限界を極めつつあるジョコビッチとマレーが、次の世代のテニスの姿を見せてくれるのではないかと期待した。その期待に、ジョコビッチは応えてくれなかった。

それにしても、ジョコビッチの執拗なまでのドロップショット。なぜあそこまで、ジョコビッチはドロップショットにこだわったのだろうか。確かに、第3セットでは数ポイント連続で同じ場所にドロップショットを落とすことでマレーを崩しかけたシーンはあった。しかし、それはあくまで目先を変える、流れを変えるショットでしかなかったはずだ。ジョコビッチはその後もドロップショットを打ち続け、そしてポイントを失い続けた。

結局、ジョコビッチは、この試合では次世代テニスがどのようなものなのかを示すことはなかった。

一番印象的だったのは、ジョコビッチが左右に攻めるボールに対して、マレーはそれを見事に切り返していたことだ。昔だったらこれだけ左右に攻められたら「ねばってボールを返す」ところを、マレーは「次に攻められることはない」レベルのボールを相手のコーナーに返球できた。エースやポイントにはならないが、しかし、確実に相手の攻撃をかわしていった。ジョコビッチがいくら左右に攻めても、最後まで攻めきれない。ミスもしない。それは、ある意味では、「守りのテニス」の究極の姿なのかもしれない。

もし、このようなテニスが標準的になるとすれば、ベースラインからの横(左右)展開のテニスでは勝つことができなくなる時代が来るのかもしれない。かつて、ウィンブルドンはサービスダッシュ、ネットダッシュを中心とした縦(前後)のテニスが主流だった。それが、ベースラインを中心とした横のテニスに変わった。多くのプレーヤーのテニススタイルは、自分のベースラインを左右(横)に守り同時に相手のベースラインを左右に攻めるスタイルとなった。しかし、今日のマレーのプレーが「あたりまえ」になると、横のテニスは転換を迎える。

すると、最後に来るのは、縦と横を組み合わせたテニスになるのだろうか。縦と横を組み合わせるテニスとは、どんなテニスなのだろうか。

⇒ Wimbledon 2013 決勝直前 ジョコビッチvsマレー

2013年7月7日日曜日

Wimbledon 2013 決勝直前 ジョコビッチvsマレー

つい先日、テニスは個人スポーツであり、国を背負うモノではないだろうという事を書いた(こちら)。とは言え、今年のウインブルドンの男子決勝はそうはいかないだろう。伝統ということをこれほど重んじる英国で、伝統をそのままテニスの大会にしたようなウィンブルドンという大舞台で、マレーが背負うものはあまりにも大きい。

マレーは、昨年、テニスのレジェンド(伝説)になるであろうフェデラーに決勝戦で敗れ、自らの力でこの大舞台をさらにドラマチックなものに演出してしまった。もちろん、意図的な演出ではない。

マレーのことを、少々気の毒にも思う。マレーは、決勝に勝ちたいという気持ちではなく、勝たなくてはならないという気持ちで、決勝戦に望まねばならない。今回のウィンブルドンの道は楽なものではなかった。決勝戦までにマレーは苦戦をいくつか乗り越えてきた。マレーの精神の糸は、きっとぎりぎりのところまで張りつめており、今まさに切れかかっているだろう。

もしマレーが今年も優勝できなかったら…。マレーのその気持ちを考えると、応援というよりも同情に近い気持ちになってしまう。

私は、もう一つ、この決勝戦に期待していることがある。それは、次の10年の男子テニスのカタチを占う戦いになるのではないかという事だ。

男子のテニス界はかつてのサーブアンドボレーは全く影を含め、グランドストロークを中心としたオールラウンドな戦法をほとんどのプレーヤーが採用している。かつてのトッププロは何か苦手なショットがあったものだが、今のプロテニスプレーヤーはちがう。どのプレーヤーも、あらゆるプレーを驚くほど高いレベルで打ってみせる。特に、トッププレーヤーは、体の使い方も見事で、肉体のポテンシャルを限界に近いところまで使っているように見える。

その意味では、すでに、ジョコビッチもマレーもあまりにも完成度が高く、どこに「伸びしろ」が残されれているのだろうかと思うほどだ。まして、ウィンブルドンの決勝戦だ。プレーの完成度は驚くばかりに高く、二人の肉体と精神は想像がつかないほど研ぎ澄まされるだろう。その中では、ほんの少しの差しかなく、その差が試合の勝者を決めるのだろう。

10年かけて男子のプレースタイルはグランドストローク中心に変化した。次の10年で、男子テニスの、ウィンブルドンのテニスがどう変わっていくのか。今の方向性にプレーの発展の可能性があるのか。それとも、新たな技術の展開が見られるのか。

決勝をしっかりと見定めようと思う。さあ、決勝戦の始まりだ!

2013年7月5日金曜日

Wimbledon 2013 どうしても何か書きたくなるプレーヤー・ラドバンスカ

ラドバンスカとリシツキのゲーム(2013年ウィンブルドン女子準決勝)を見ていて、ラドバンスカという選手がだんだん怖くなってきた。ラドバンスカの目には、ネットの向こうの相手は、コートは、風景は、どんな風に目に入るのだろうか。

負けるのが怖いとか、勝ちたいとか、ラドバンスカはそんな気持ちは全くなさそうだ。彼女は、名声や名誉のためにゲームをするのではない。勝ちたいという気持でもない。ただゲームに勝つためにプレーをしている。

勝ちたいと思ってプレーするのと、勝つためにプレーをするのは、言葉は似ているが実は全く違う。前者は結果に重きを置く。後者は過程に重きを置く。

ラドバンスカにとって、勝利は過程の先にある結果でしかない。言い換えると、結果までの過程についてしか、彼女の頭にはない。

彼女のプレーは、単純だ。ポイントを取るためにできることを何でもする。フォームなどはどうでもよい。ポイントを取るために、コースを隠し、ボールのスピードを変え、球質を変え、ペースを変える。相手の予想外のところにボールを打ち、逆に相手の思う場所にボールを打ってエラーを誘う。大切なことは、ポイントを取ることだ。そのスタンスは明確だ。

いったい、どのような少女時代を過ごせば、こんな女性に、こんなプレーヤーになるのだろうか。こんな人格になるのだろうか。何度も書くが、人格はテニススタイルを超えることはできない。ラドバンスカのプレーは、彼女の人格以外のなにものでもない。人格がこのようなプレースタイルを作ったのか。テニスが彼女の人格を形成したのか。

表情をあまり変えない選手は大勢いる。こみ上げる感情を表に出さずにコートに立つプレーヤーは多い。しかし、人格がそのままテニスに現れて、その人格には感情がほとんどない選手は数少ない。

少なくとも、他のどの選手よりも、テニスと人格が一致しているのが、ラドバンスカだと思う。彼女からテニスをとったら、彼女は死んでしまうのだろう。こういう形での人格の表現は、私は嫌いではない。ただし、こんなプレーヤーとテニスの試合をするのは、勘弁してほしいが…。へとへとに疲れてしまうのは間違いない。

ラドバンスカは、リシツキに敗北した後、握手の際に相手の目を見なかった。そのまま彼女は、目に入るすべての風景を「見る」事をせず、相手も、審判も、おそらくは陣営さえも見ずに、その足で足早にスタジアムを去って行った。

⇒ Wimbledon 2013 李娜vsラドバンスカ(ある意味こんなに女性的なプレーヤーはいないのかもしれない)

2013年7月2日火曜日

Wimbledon 2013 李娜vsラドバンスカ(ある意味こんなに女性的なプレーヤーはいないのかもしれない)

いろんなテニスがあるのだと思う。同じルールで、同じコートで戦う同じ大会の中でも、李娜とラドバンスカの準々決勝戦は、昨日観たセレナ・ウイリアムズとリシツキのゲームとは、別の競技と言ってもよいほど違った。

唐突な書き方だが、一般に男性は空間認知能力に長ける傾向があり、女性は言語能力に長ける傾向があると言われている。これを、あえてテニスに置き換えてみると面白い。

空間認知とは飛んでくるボールや自分の打つボールをどのようにイメージするかと言ってよいだろう。ボールに対する高い空間認知能は、強いボールを打つことができる強靭な肉体能力と同様に、プロテニスプレーヤーには利点となる能力だ。

一方、言語能力にたけているということは、ボールを打ち合ってポイントを取るテニスというゲームには特段の関係はないようみえる。が、実はそうでもない。そのことを、ラドバンスカの試合は教えてくれる。

女性は、一般に、言語を介して相手(他人、周りの人など)の感情や考えをくみ取る傾向があるといわれている。おしゃべりが好きなのは、どの国でも、どの人種でも、間違いなく男性よりも女性の方だ。個人差はもちろんあるものの、男性週刊誌と女性週刊誌を比べてみれば、日常の中でうわさやゴシップなど他人のことにより興味があるのは女性であることがわかる。

ラドバンスカは、明らかにこの言語能力に長けている。つまり、コートの向こう側からこちらの心理を完全に読み取ることができる。相手の気持ちを想像する能力を女性的というならば、こんなに「女性的」な女子プレーヤーがほかにいるだろうか。

李娜がフォアハンドでラケットが最後まで振りきれないと見切るや、しつこいようにフォアハンドにボールを集める。そして、なんとか李娜がフォアハンドで耐え忍んだところに、最後の一撃でバックハンドの深いボールを配球する。

李娜が守らずに攻撃する戦略に出ると、ラドバンスカは攻撃をかわす戦略に出る。李娜がラッキーポイントを重ねて2セット目を取ると、李娜の気持ちの流れを切るべくメディカルタイムアウトを取る。

観客の視点で言うと、李娜の精神状態を読み取るには、李娜の表情よりもラドバンスカのプレーを見た方が分かりやすいほどだ。李娜を応援する気持ちでゲームを見ていると、とにかくラドバンスカのプレーは「いやらしい」の一言に尽きる。

第二セットの最後に、李娜のラッキーショットが続いた。さすがのラドバンスカも、ネットインだけは予測することができない。試合は、セットオール(1-1)で第三セットに入った。李娜がラッキーショットに助けられた心理状況すら、第三セットでラドバンスカは活かすかもしれない。ラドバンスカのプレースタイルが好きなわけではないが(正直、こういう精神的な攻め方はどちらかというと好きではない)、こういうテニスもあるのだという気持ちでこの試合を最後まで見てみよう。

・・・

それにしても、李娜はどうしてもっと体重をかけたストロークを打たないのだろうか。強引にボールをポイントに打ち込もうとする姿は、先日のセレナ・ウイリアムスのプレーとは正反対だ。特に、ラドバンスカの様なクレバーなプレーに対抗するのであれば、深く強いボールを重ねて、隙を見つけて攻撃するしか方法はないと思うのだが…。

⇒ Wimbledon 2013 どうしても何か書きたくなるプレーヤー・ラドバンスカ

Wimbledon 2013 李娜とクルム伊達:アジア人のテニス

シードダウンが続く中、第6シードの中国のNa LI(李娜)が1週目を勝ち残った。このところグランドスラム大会で比較的早いラウンドで敗退することが多く、あまりプレーを目にする機会がないために2013年のウィンブルドンの李娜を占うことは私にはできない。

以前も書いたことがあるかもしれないが、クルム伊達公子と李娜には、奇妙な共通点を感じる。いや、むしろ、二人のアジアのテニスプレーヤーという点では、必然的な共通点なのかもしれない。

それは、二人ともがテニスが好きで、テニスを楽しむためにプレーしているのに、勝てば勝つほどプレーとは直接は関係がないものと戦わねばならないという事だ。

戦う相手は自分を取り巻く環境であり、本来は自分のよりどころになるべきものだ。マスコミや国民という人々であり、協会や国という組織の存在だ。

スポーツは個人のものであり、組織や国とは独立したものだなどという野暮なことを言うつもりはない。このグローバル化された世界の中で、ビッグスポーツはあらゆるものが有機物のように絡まって成立している。それはまるで、巨大なじゃんけんだ。選手の活動を経済的に支えているのは、ファンや国民ではなく、スポンサーだ。しかし、そのスポンサーは、国民に商品を売ることを生業にする。大会運営母体も、チケット販売や放送権がなければ大会を運営できない。結局、選手は、国を背負うという意識があろうがなかろうが、国民の声援に応えなくてはならない。

李娜は、全仏オープンの優勝インタビューで、スポンサーや大会に感謝の意を述べたが、国に対していの感謝を口にしなかった。また、べつの機会には、自分は国のために戦っているのではないと言い切った。それは、李娜が大きなものを勝ち取った瞬間に、別の大きなものと戦いを始めなくてはならないことを意味していた。

1980年代に、チェコ・スロバキアの二人の巨人、イワン・レンドルとマルチナ・ナブラチロバは自分の国を捨てた。後を追うようにハナ・マンドリコバが国を離れ、ヘレナ・スコバとミロスラフ・メシールだけが残った。スコバは母親(父親?)がチェコのテニス協会の委員であり、メシールは国に対して不満がなかったというだけだ。

錦織は日本国籍の選手として登録されているが、中学生から活動拠点を米国に移している。有名なニック・ボロテリーの門下生だ。ニック・ボロテリーのテニスアカデミーには、世界中から有望な若者が集まる。それは、モンゴルや欧州から日本にやって来た力士を思い出させる。相撲のウィンブルドンがあったとしたら、日本人はモンゴル選手の優勝をモンゴルの誇りだというモンゴル国民を、どんな目で見るのだろうか。

結局、テニスという個人スポーツは、やはり個人のものなのだ。国民やその国のテニス協会(もちろんマスコミも)は、自国の選手がトップランカーになれば、それでよいではないか。大いに誇りに思えばよい。しかし、その選手を何らかのコントロールしようとしてはいけない。与えるのは尊敬の気持ちと純粋な声援だけでよい。それに見合うだけのものを、選手たちは十分に与えてくれている。それ以上を求めることが、なぜ許されようか。

42歳になり、スポーツ選手にとって最も価値のある肉体の若さを失っても、クルム伊達はニコニコしながら大会に挑み続ける。それは、彼女がそれ以上のものを勝ち得たことを意味している。

李娜はきっと、クルム伊達の後を追いかける。李娜のウィットに富んだインタビューの裏には、眉間にしわを寄せた姿がいつも見え隠れする。彼女はいまだに、テニスコートのネットの向こう側のプレーヤー以外の多くのものと戦っているのだ。彼女が明るいキャラクターである分だけ、眉間のしわに重さを感じる。

李娜がクルム伊達と同じように心から楽しむ表情でテニスコートに立てるのはいつのことだろうか。その時、彼女は、何を得て、何を失っているのだろうか。

⇒ 李娜(Na Li)の全仏オープン2011決勝


2013年7月1日月曜日

Wimbledon 2013 セレナ・ウイリアムズの意外な姿

以前も書いたが、正直、男子の試合と比較して、女子の試合にはどうしても興味がもてない。男子の方が肉体的に優勢な分だけプレーに迫力がある、スピードがあるからではない。

私は、ほとんどの女子のプレーからは、どうしても美しさを感じることができない。

特に、ウイリアムズ姉妹、シャラポワ、アザレンカ、リシツキなどのいわゆる大型プレーヤーにはどうしても興味を持つことができない。彼女たちは、グランドストロークにおいて、まず足の位置を決めたら後は上体でボールをヒットする。下半身の動きと上半身の動きが連動せず、独立している。そこには、残念ながら、美しさはない。肉体の持つポテンシャルを引き出しきれているとは言い難い。

普段、めったに大型プレーヤーの試合を見ないのだが、今日、偶然にリシツキとセレナ・ウイリアムズの試合を見て(実はまだ試合中で結果が分からない)、意外なことに気が付いた。

セレナ・ウイリアムズは、大型プレーヤーの中でも特に上半身でボールを打つプレーヤーだと思っていたが、よく見るとそうではない。それは、セットの合間に放送されたグランドストロークのスローモーションで分かった。実は、セレナ・ウイリアムズのストロークは、かなり基本に忠実だ。

そのことは、彼女のラケットワークを見ればわかる。フォワードスイング、インパクト、フォロースルーにかけて、ラケットの動きはなめらかで無理がない。ボールをヒットした直後にボールに無理な回転をかけるのではなく、ボールを前に押し出そうという意思が見える。ボールをヒットした後、ラケット面はボールを追いかけるようにボール進行方向に移動する。

「強引」というイメージはない。むしろ、「献身的」とも言える意思が、彼女のラケットワークには見える。

実は、今、セレナ・ウイリアムズがリシツキに負けて、コートを去っていくところ。初めて見たセレナ・ウイリアムスの献身的なプレーは、リシツキにあと一歩のところで及ばなかった。私は、最終セットを見ながら「あれ?セレナ・ウイリアムズってこんなプレーをするんだっけ」と思った。

セレナ・ウイリアムズのプレーは、ストロークだけではなく、プレー全体に「強引さ」が全く消えている。正確には、消えたのかどうかは分からない。なぜなら、今まで、(美しいとは思えない)セレナ・ウイリアムズのゲームをほとんど見たことがないからだ。しかし、今までテレビのダイジェストなどで見る彼女のプレーの印象と、今見たプレーの姿は別人ほど違った。

セレナ・ウイリアムズは、強引なまでにボールを叩き、相手を打ちのめしながら勝ってきたのではなかったのか?今、コートにいるこの女子選手は、むしろ丁寧に、ボールにしっかりと体重をかけて、まさに美しいテニスをしようとしている。相手の速い球にはしっかりと腰を落とし、ラケット面をきちんと作って、ボールを打ちたい方向にしっかりとラケットを振りきる。自分のボールは無理せず、まず相手にとって打ちにくい場所に配給してから、次の攻撃を組み立てる。

私が最近見た女子選手の中で、最も基本に忠実なプレースタイルだ。

ただ、残念ながら、そのプレースタイルが十分に身についていない。きれいなテニスは、常にリスクを伴う。微妙なフットワークのずれ、スイングのタイミングのずれが、相手コートにボールが落ちる場所を左右する。強引なボールを打っていた時のようには、ボールの勢い(力)でミスしてくれない。組み立てて、自分の思う配球をして、最後に相手を仕留めるまで、展開にはミスが許されない。

そのような高度なプレーができるようには、セレナ・ウイリアムズはまだ成熟していないように見えた。しかし、それは、言い換えると、まだ彼女が成長する可能性があるという事だ。そうだとすると、それは驚くべきことだ。すでにトップを極めた選手が、さらに上を目指してメタモルフォーゼしようとしている。そんな選手が今までにいただろうか?

セレナ・ウイリアムズは、今、31歳だということで、おそらく、パワーテニスでは若い世代には対抗できなくなってきたことを知っているのだろう。もしかしたら、自分のプレースタイルを変えようとしているのかもしれない。しかも、この、ウインブルドンという大舞台で。

まさか、それが、一昨日の伊達戦後のセレナ・ウイリアムズの気持ちの変化という事はないだろう。けれども、もしかしたら…と想像するのは、楽しいことだ。セレナ・ウイリアムズが、もし、自分も40歳を超えてもウインブルドンのセンターコートに立ちたいと思ったのだとしたら。