2011年7月26日火曜日

ウィンブルドン2011 コートの上のクルム伊達(その2)

ふと思い出して、少し前に書いたウィンブルドン2011 コートの上のクルム伊達というタイトルの短い記事を読み直してみました。

内容に関しては、とくに書き直したいとは思いませんが、少し、書き足したいと思ったのです。

世界で通用するには、周りに影響を受けることなく自分の方法を貫くことだとは書きましたが、それは、あくまで、「自分自身の方法」を確立できてからの話だということです。その方法がなくては、貫くモノもありません。

そして、自分の方法を、ゼロから作るのは難しいものです。「学ぶ」という言葉の語源は「真似をする(まねぶ)」ということだそうです。テニスに限らず、多くの技術は、真似をするところから始まるのです。

周りに影響を受けながら自分の方法を確立し、周りに影響を受けずに自分の方法を貫く。

そのタイミングの切り替わりはどこにあるのでしょうか。

おそらくそれは、オリジナル方法を真似し続けた結果、それが自分の体の一部になった瞬間だと思います。真似をするだけの対象は、おそらく完成度の高いものです。それを自らが取り込んだということは、いわば、自分は、その技術の後継者になったということです。

そこから先は、自分の道です。自分で切り開かねばなりません。

どこで、自分の道を歩き始めるのか。その判断ができるかどうかが、もしかしたら、いわゆる「一流」とう道を歩くかどうかの必要条件なのかもしれません。

2011年7月20日水曜日

書評:「二つのファイナルマッチ 伊達公子・神尾米最後の一年」(下) なでしこJAPANから学ぶこと

昨日(正確には一昨日)、女子のサッカーワールドカップで、日本が優勝しました。サッカーについては、日本は、おそらく(男子はもちろん女子も)欧米から遅れている競技だったと思いますので、これは、本当に快挙と言ってよいでしょう。

私は、今回の試合(アメリカとの決勝戦)内容についてはダイジェストで見ただけなので詳しくは分かりませんが、かなりの僅差での勝利だったようです。したがって、今後、日本女子チームがトップに君臨するというような強さというよりも、どちらかというと、この大会で、神がかり的な強さで優勝したような印象を受けました。(もちろん、それが、優勝の価値を少しも下げるものではないのですが。)

ふと、テレビや新聞を見ても、とても大きな扱いで、少し前のオリンピックで、女子ソフトボールが優勝した時のことを思い出しました。あの時も、メディアはかなりの扱いだったように記憶しています。

さて、ここからが本題です。

女子ソフトボールも、女子サッカーも、長い歴史とは言えない中で世界の頂点を極めたのに、なぜ、(女子)テニスはそうならないのか。

「二つのファイナルマッチ 伊達公子・神尾米最後の一年」の中で、著者は、かなりのページを割いて、フェデレーションカップの運営についての不満を書いています。当時のフェデレーションカップは、伊達・沢松というかなりの布陣を有しながら、しかし、勝利することを最優先した運営ができていなかったというのです。

私は、事の真偽を知る立場にいませんので正しく判断することはできないのですが、しかし、日本の女子(おそらく男子も)テニスが世界に通用することを目指した運営体制になっていないだろうなということは、容易に想像がつきます。そう感じる理由は簡単で、実際に日本は、男子はもちろん、女子も、ナショナルチームが世界の頂点を極めることができていないからです。(男子はデビスカップチーム、女子はフェデレーションカップチームです。)頂点を極めるどころか、ワールドグループに入ることすら、ほとんどできていない現状です。

世界のスポーツにおいて、ナショナルチームの強化体制の成果が出やすいのは、女子です。これは、ほとんどの競技において、女子の方が男子よりも競技人口数が少ない(選手層が薄い)からです。もちろん、そのことが、女子競技の方が男子競技よりも劣るということを意味しているわけではありません。ただ、協会が本腰でナショナルチームの強化策を打てば、少なくとも、女子については、世界での戦いにおいてもその効果は出やすいはずなのです。しかし、ソフトボールやサッカーと比較しても浅いとは思えない歴史のあるテニスでは、その強化策は、残念ながら機能しているようには見えません。

この書籍の指摘だけではありません。フェデレーションカップではないですが、今年のデビスカップについて、山口奈緒美さんが「デ杯で日本勝利も、手放しで喜べない現状」という記事を書いています。これは、ナショナルチーム強化の話ではないですが、この文章からも、会場選択がベストの解になっていない(日本チームが勝つことが最優先になっているようには見えない)という日本のテニス界の現状が、透けて見えるような気がします。

この現状をどのようにすれば改善できるのか。

これについても、私がそれを述べる立場にはありません。ただ、無責任にコメントをするならば、一つだけ、とても大切なことを一つだけ、指摘したいと思います。

それは、現役を終えた選手が、現場を離れて、経営側・運営側に参加することです。男女のテニス協会だけではなく、スポンサー、企画、代理店、経営…など、あらゆる方面に、現役経験者が入り込んでいくことです。特に、世界を知っているプレーヤーの仕事は重要です。

プレーヤーは、現場が好きです。引退しても、現場が好きです。コーチになったり、テレビや雑誌の解説者になったりの方が、きっと、楽しいはずです。

しかし、それでは、ナショナルチームの強化は難しいのです。現場をよく知っている者が、現場をあきらめてでもコミッションする側に入り込み、プランニングする側に入り込む。代理店や資金運営を含めた経営側に入り込む。これらは、スポーツ選手にとっては楽しい仕事ではないでしょう。しかし、それを行わない限り、日本のテニスのナショナルチームが世界のひのき舞台に出ていくことは難しいと思います。

野球やサッカーと比べて、テニスの場合は経営規模が小さいから・・・というのは、言い訳にはなりません。女子ソフトボールも、女子サッカーも、ビジネスとして成立するだけのパイがあったわけではないのですから…。

このことについては、きっとまた、どこかで、さらに詳しく書く機会があると思います。

2011年7月19日火曜日

李娜(Na Li)の全仏オープン決勝戦 その後

ナ・リ(Na Li)の全仏オープン2011で、李娜(Na Li)の全仏オープン決勝戦について書いてみました。その後、パリ在住の知り合い(友達)に、「フランス人にとって、中国人(アジア人)が伝統と格式のあるフレンチオープンに勝ったことが、どのように受け入れられているのか?」について、ちょっとヒアリングをしてもらいました。

そのブリーフレポートです。

実は、彼(友人)はいわゆるインテリで、また、職場もそのような人たちが多いので、これがパリッ庫の意見と同じなのかはわかりませんが…。彼の答えは、次のようななものでした。

「何人かに、李娜が全仏オープンで優勝した印象を聞いてみたけれど、誰一人として、アジア人が勝ったことを受け入れていない人はいなかったよ。アジア人が勝つことに関して、排他的な意見は、まったく出てこなかった」と。

また、「面白いことに、中国人が勝ったという人と、アジア人が勝ったという人が、半分半分ぐらいだった」とも言っていました。

私のブログの内容も、ちょっと偏りすぎ(ドラマチックに書こうとして、色眼鏡で見ている?)のかもしれませんね。でも、試合を見ていた時の印象は、素直に、思った通り、感じたとおり書いています。


2011年7月18日月曜日

ちょっとした冗談

今日、昼過ぎに、ウィンブルドンミックスダブルス決勝の試合をテレビ(GAORA)で見てから、いつものテニスコートに行きました。試合は、オーストリアのメルツァー(男子)の調子が非常によく、一方でインドのブパシの調子が悪くて、その結果として、メルツァー・ベネソバ組がブパシ・ベスニナ組を圧倒して優勝しました。

その試合の放送で、解説者の佐藤武文さんが、こんなことを言っていました。「ミックスダブルスの倍は、男子が1.5人分をカバーしなくてはならないのです。」

ミックスダブルスでは、男子選手が女子選手をどれだけカバーできるかが重要ですので、佐藤さんが言われていることはよく分かります。

テニスコートで、同じ番組を見たある女性が言いました。今から、ミックスダブルスをしましょうという時です。

「私は、0.5人分だけ頑張ればいいんだから、楽だわ~。」(笑)

2011年7月17日日曜日

プロとアマチュア(中) 自分自身のコーチになろう

プロとアマチュア(上)において、アマチュアの利点、つまり、アマチュアはじっくり時間をかけて自分の技術を追求できることの利点を書きました。

アマチュアは、テニスで収入があるわけではありませんので、専属のコーチを雇うことはできません。自分の技術向上は、自分自身だけが頼みです。ならば、自分自身が自分のコーチになればよいとは思いませんか?自分が自分のコーチングをするのであれば、たっぷり時間があります。選手たる自分は、コーチたる自分の言うことを、何でも聞くでしょう(笑)。

自分自身が自分のコーチになるためには、何をすればよいか。

まずは、自分の目指すテニスを明確にしましょう。もちろん、目指すテニスがない(自分に一番適したテニスを目指す)というのも”あり”だと思います。しかし、折角、アマチュアなのです。勝ち負けに関係なく目指すテニスを目指すことを許されるのがアマチュアです。この機会に、目指すテニスを考えてみてはどうでしょうか?

書評:「二つのファイナルマッチ 伊達公子・神尾米最後の一年」(前)でも書きましたが、かつて、作家の村上龍氏は、テニスボーイ・アラウンド・ザ・ワールドで、こんなことを書いています。

「テニスプレーヤーの人格は、そのプレーを超えることができない。」

自分のテニスが、自分を表現する手段になることは、なんと素晴らしいことだと思いませんか?テニスを自己表現として考えることができるのも、アマチュアの特権でしょう。(真のプロフェッショナルは、自然にそうなるのでしょうが…。)

私の場合は、目指すテニスがはっきりしている(メシール)ので、この点で悩むことは全くありませんでした。

と言っても、実は、メシールのあらゆるプレーをコピーしているわけではありません。フォアハンドとバックハンドストロークとフットワーク(ステップ)は完璧なコピーを目指していますが、一方で、ボレーについては全く参考にしたことがありません。(メシールのボレーは、あまり上手ではないというか、私には魅力的ではありません…。)

自分で目指すテニス(プロのコピーでもよいですし、頭の中のイメージでもよいと思います)が決まったら、次は、自分のコーチをしましょう。ここからが本番です。

自分をコーチする際に便利なモノが、ビデオカメラです。いえ、ビデオカメラは、自己コーチングでは必須と言えるかもしれません。自分のプレーは、自分で見ることができないからです。

最近のビデオカメラは、低価格で高解像度です。ビデオカメラを用意して、自分自身を撮影するのです。撮影した映像は、スローモーション再生もできますので、フォームやプレーを、時間をかけてじっくりと分析できます。

自分でボールを打っていますので、どのときにうまく打てて、どのときにうまく打てなかったかは、自分自身でよく分かっているはずです。自分のプレーを何度も何度も繰り返し見ることで、どこをどう修正すればよいか、だんだん分かってくるはずです。

実は、「テニスプレーヤーの人格は、そのプレーを超えることができない」というのは、比喩でも、精神論でもありません。テニスは、本当に、その人の性格が出やすいスポーツです。サーブを打ってからネットダッシュしてもよいし、ステイバックしてもよい。スピン系を中心に戦う選手も、フラットドライブ系中心の選手もいます。バックハンドに至っては、両手で打っても、片手で打ってもよいのです。

基本的なプレースタイルにこれだけのバラエティーがあるスポーツも珍しいのではないでしょうか。そして、その分、プレースタイルに自分自身を反映しやすいスポーツでもあるわけです。攻めたい性格の方は攻撃的なプレースタイルを、守りたい性格の方は安定でミスの少ないスタイルを。そして、私のように、美しいテニスを求める人は美しいテニススタイルを…。

自分のプレーをビデオで穴が開くぐらいに何度も見て、同時に、自分が目指したいテニス(自分が表現したい自分)を何度も何度も考え抜くこと。あなたが(自分の)コーチ業をスタートするのであれば、まずは、そこから始めるのがよいと思います。

プロとアマチュア(上) アマチュアだからできること

上手なのがプロで、そのレベルにまで達しないのがアマチュア。テニスで飯が食えるのがプロで、別に職業がなくてはテニスでは食えないのがアマチュア。

そんな風に思ってないでしょうか?

私は、そんな風には考えません。

プロとアマチュアの違いとは、いったい何なのでしょうか?

私は思うのですが、調子がよくなくても、技術が未完成でも、試合においては「形を整える」のがプロです。プロの評価は、勝敗というたった一つの基準でなされます。高い技術を持っていても、試合に勝てなければ、その技術は評価されません。逆に言うと、技術力がなくても勝てるのであれば、それは高い評価がされます。別の角度から見ると、プロの技術は、勝てるかどうかという「ものさし」(だけ)で評価されるのです。

プロは、したがって、勝つことができるという技術を、高度な、言い換えると正しい技術よりも優先します。ここが大切なところで、勝つことができる技術は、必ずしも「美しい」テニスの技術と一致するとは限らないのです。

かつて、スウェーデンにケント・カールソンという、クレーコートのスペシャリストがいました。カールソンのテニスは、とにかくミスせずにループボールでストロークを続けるというもので、それでもある程度の成績を残したのですが、到底、美しいテニスと呼べるものではありませんでした。それでも、カールソンのテニスは、プロとしては正しいのです。勝つことが、何よりも、大切なのがプロなのですから。

アマチュアは、その必要がありません。じっくり、自分のペースで時間をかけて、自分が納得するまで、じっくりと技術に取り組むことができるのがアマチュアです。アマチュアには、いつまでにどこまで完成させなくてはならないというラインがありません。美しさを、勝利よりも優先できるのも、アマチュアの特権です。そのことを、堂々と宣言しても、アマチュアの場合は、誰にも非難されません。アマチュアなのですから。

アマチュアは、幸せです。

私は、46歳になって、約20年ぶりにテニスを再開しました。20代の中ごろまでは、それなりの熱意をもってテニスに取り組みました。しかし、この20年間、本業の仕事を充実させるために、年に数回しかテニスラケットを持つことができませんでした。テニスを再開してからは、週末プレーヤーですが、後述するように、かなり熱意をもってテニスに取り組んでいます。

今、この年齢になって、もう、若いころのような体力も、瞬発力もありません。当時のギラギラとした情熱すら、今はもうないと思います。しかし、不思議なことに、私の技術は、いまだに向上しているようです。そして、おそらく、若いときよりも、今のほうが、テニスの技術は上だと思います。

それは、おそらく、今の私は、当時よりも自分が納得する技術を追求しているからだと考えています。今は、目の前の試合の勝ち負けではなく、自分の技術を向上させることに集中し、一歩一歩、前進しているからです。

実は、私は、46歳でテニスを再開する際に、2~3年計画で技術を定着させることにしました。メシールのビデオと自分のビデオを何度も何度も見直して、試行錯誤し、自分なりの技術を追求してきました。その間、ほとんど対外試合に出ることをしませんでした。練習試合でも、勝ったり負けたりを繰り返しながら、しかし、目先の勝利ではなく、しっかりとした技術理論を自分の中で確立し、さらにそれを身につけることだけを目標としてきました。

こんなに時間をかけて、何年もの時間をかけて技術だけを追求できるのは、それはアマチュアだからです。プロは、目の前の仕事(=試合)で結果を出さねばならないからです。

アマチュアであることを大いに楽しむこと。これこそが、アマチュアの醍醐味だと思います。

続く

2011年7月11日月曜日

ウィンブルドン2011 コートの上のクルム伊達

ウィンブルドン2011についての最後のブログです。今回、早いラウンドで敗退したクルム伊達のプレーについて、思ったことを書いてみようと思います。いや、この内容は、プレーとは言えないことかもしれません。

Na Liのフレンチオープン2011で書きましたが、私には、Na Liは、決勝のセンターコートで、欧米の歴史そのものと戦っているように見えました。しかし、その後、いろいろ調べてみると、Li Naはオープンでアメリカナイズされた個性(パーソナリティー)の持ち主だということが分かってきました。中国を背負うわけでも、中国のためでもなく、良くも悪くも中国人女性らしくないといってもよいパーソナリティーに見えました。(私は、テニスは個人競技だと思っていますし、基本的には国籍とプレースタイルはあまり関係ないと思っていますが。)

Na Liのパーソナリティーについては、山口奈緒美さんのコラムでも、その明るくオープンな様子がレポートされています。

さて、クルム伊達です。私は、クルム伊達対ウィリアムスの試合で、クルム伊達の見せる日本人らしいしぐさが気になったのです。

たとえば、ミスをして、「あ~」と言いながらしゃがみこむしぐさなど、これは全く、日本女性(日本の女の子?)のしぐさです。この動作の本当に雰囲気は、おそらく、日本人以外には理解されにくいのではないでしょうか?

クルム伊達は、全く屈託なく、幾度となく、本当に日本人っぽいジェスチャーや声、しぐさをコート上で見せます。

そして、これこそが、クルム伊達の強さの秘訣ではないのかと思いました。

上のNa Liのフレンチオープン2011のブログ記事は、実は、私のブログの中で、アクセス数が一番多い(ダントツ)の記事です。その内容を、テニスに詳しい人複数に話したり読んでもらったりしたのですが、私の予想に反して、その内容に共感してくださる方が多い記事でもあります。(私自身は、この記事はかなり推測に基づいて書いているので、どこまで正しいのか自信がないのですが…。)

日本人プレーヤーが、なぜ、世界のテニスシーンでトップまたはトップクラスになかなか躍り出ることができないのか。もちろん、この記事の内容が、それを適確に指摘しているとは思いません。ただ、クルム伊達の強さは、当たり前のように日本人らしさをウインブルドンのコートに持ち込んでくることなのかもしれないと、ふと思ったのです。

そのクルム伊達も、よいポイントを取った時には、”Come on!”と英語で言ったりしています。

上の山口奈緒美さんのコラムでも、Na Liが自分の生き方をまず大切にする様子が報告されています。私は、なんとなく、クルム伊達とNa Liに共通したものを感じるのです。

つまるところ、ルールなどなにもないのです。自分の中にしか。

一番大切なことは、自分の方法で自分を表現し、自分の方法で戦うこと。もちろん、国際社会(国際的な大会)で共通のもとして守るべきルールやマナーはあるでしょう。それらは、絶対に守らねばなりません。しかし、それ以外については、躊躇することなく、周りの目を気にすることなく、自分のやり方を貫けばよいのです。

一番よくないのは、他人の目を気にして、自分を出し切らない(出し切れない)ことです。まず、国際社会のルールの中でしてはいけないこととしなくてはならないことを理解する。その基本ルールを十分に身に着けたら、今度は、それら以外については、外からの目を一切気にせずに自分を出し切る。

これが、国際的な大会で通用する秘訣だと思います。

選手のコーチや指導者、支援者がすべきことは、まだまだ、たくさんあるようです。

2011年7月10日日曜日

ウィンブルドン2011女子を振り返って~たった5歩のダンス

ウィンブルドンの試合をテレビで見るのは何年振りかだったのですが、今年は、特に、神尾米さんが解説を担当されていた第1週目(前半)の女子の試合を中心に、WOWOWで放映された何試合かを見ました。(私は、米さんのファンなので(笑)。)

今年の女子は、クビトバ(チェコ)の初優勝で幕を閉じた女子シングルスですが、女子の試合を何試合か見ているうちに、ふと気が付いたことがあります。

それは、大型化が進む女子選手の中に、比較的小柄であったり、またはスリムであったりするプレーヤーが混じっている(残っている?)ということです。

最近の女子テニス界は、ウイリアムス姉妹はもちろんのこと、シャラポワ、アザレンカ、クビトバ、リシツキと、大型でスケールの大きなテニスをする女子プレーヤーが目立ちます。

その中で、時々、小柄またはスリムな選手が時々上位に進出するのですが、これが楽しみの一つになっています。たとえば、今年、私が見た試合では、ピロンコバ(ブルガリア)やエラコビッチ(ニュージーランド:ダブルスでベスト4)などがそうでしょうか。(少し前だと、ヒンギスがそうですね。そういえば、エナンの2度目の引退は、残念でなりません。)

しかし、ただ小柄だったらよいというわけではありません。たとえば、準々決勝でアザレンカと戦ったオーストリアのパスゼックは、小柄ですが、私にはあまり魅力的なテニススタイルには見えませんでした。

体格がよい(もっと正確には身長と体重がある)選手は、フットワーク(正確にはステップ)とストロークが独立しても強いボールを打つことができます。フットワークを使ってボールの打点にまず移動する。移動してから、改めてボールに体重を乗せてボールを打つ。この2つの作業を別々に、連続して行うことができるのです。

しかし、体格がよいわけではない選手は、ステップワークとストロークがうまく同期(シンクロ)しなくてはなりません。打点のところまでのステップは、同時に、ストロークの一部でなくてはなりません。コート上での動きは、すべてが、ストロークの一部というわけです。そのためには、力の使い方も、体の使い方も、そしてステップにも無駄がありません。

そういうプレーヤーは、見ていて美しいし、楽しいのです。別項(メシールのテニス(12) なぜメシールのテニスは美しいのか~フットワークについて)で書きましたが、私がメシールのテニスが好きな理由は、メシールは典型的な後者のプレーヤーだからです。他には、かつてのチェコスロバキア選手として活躍したハナ・マンドリコバなどがそうでしょう。精神的にむらっけがあったものの、マンドリコバのプレーは、コートの中でまるで踊っているように美しいものでした。

話は変わりますが、もし、あなたが、ベースラインの真ん中で構えてベースライン上で相手のボールをストロークで打つとして、ボールをヒットするのに何歩が必要かご存知ですか?ご存知がない方は、ぜひ、一度、コートで試してみてください。意外に少ないことに驚かれると思います(私は驚きました)。

たとえば、私の場合、フォアハンドはほぼ2歩、バックハンドは3歩です。つまり、合計でたった5歩で、実は、ベースラインの端から端までをカバーできるのです。最初の一歩は、フォアもバックも、ボールと反対側の足になります。たとえば、フォアハンドでは、左足が一歩目になります。

フォアハンドとバックハンドで歩数が違うのは、私の場合は(メシールを真似して)フォアハンドは基本的にはオープンスタンスで打つからです。また、実は、2歩では、サイドラインから50㎝~1mほど足りないため、本当にギリギリのボールに対しては、あと1歩(または2歩)必要になることもあります。私のレベル(中級)ではそこまできわどい球が飛んでくることは、ほとんどありませんが。

つまり、テニスのストローク戦は、この5歩でどこまで戦えるかということになります。たった5歩と言っても、簡単ではありません。特に、ボールを打った後で元のポジションに戻るときも、フォア2歩、バック3歩で戻らねばなりません。ストロークで、右足または左足に体重が乗っているところでそれを戻し、さらに、少ない歩数でレディーポジションに戻るためには、ボールに入る・ボールを打つ・体重を戻す・レディーポジションに戻るという一連の動きがスムーズであることが求められます。

この一連の動きに無駄がなく、スムーズでなめらかであると、テニス全体が美しく感じます。

コートの上で、フットワークとストロークには境目はありません。フットワークを含めた大きな一つのストロークプレーがあるだけです。

広いコート上での、たった、5歩の、ダンス。

特に、両手バックハンドは、左膝と腰をしっかり落とすことが大切ですので、バックハンドの一連の動きのフットワーク全体に対する負担は大きくなります。メシールが、バックハンドストロークのアンフォースドエラーの後で、「もっとしっかり腰を落として!」と自分に言い聞かせるのを何度か見たことがあります。それでも、一連の動きはスムーズでなくてはなりません。

5歩の動きの中で、ボールをヒットする。これがスムーズで同期しているテニスこそが、美しいテニスです。バランスを崩さず、体重移動をスムーズに、そしてその中でボールとの距離の微調整をうまく取れること。ボールを強くたたくことよりも、ボールに強いスピンをかけるよりも、流れるようなプレーの中で重いボールを打つことが大切です。

このブログの最初の目的は、私自身が、なぜ、メシールのテニスを美しいと感じるかということでした。少しずつ、その答えに迫ってきているように感じます。

おまけ:興味のある方は、「歩数の少ないフットワークについて」も、ぜひお読みください。

2011年7月8日金曜日

メシールのテニス(32) サーブ(その4) 野球の投球フォームの弊害

ずっと思うように打つことができずに苦労(苦戦)している私のサーブ。特に、安定したスピン系のサーブを打つことができません。どうしてなのか、ずっとわからず試行錯誤していたのですが、最近、少し理解できてきたので、解説してみようと思います。

昔、若いころに野球をやっていた(特にピッチャー)の場合は、肩が回るので有利だと言われていましたが、どうも、必ずしもそうではないというお話です。

実際、サーブのフォームは、投手の投球動作と似ているところは多いと思います。肩が回ることもその一つであり、それだけを考えると、確かに、野球の経験は有利な点もあります。

しかし、野球の投球フォームとテニスのサーブ(スピン系)では、決定的に違うことがあります。この点が、私を長い間苦しめている点です。(私は、中学校の時に、野球部でピッチャーでした。)

それは、右肘(右利きの場合)の使い方です。これが、野球とテニスでは、全く違うのです。以下、テニスの用語を使って説明します。

野球では、投手は、フォロースルーにおいて、いかに右肘を前に突き出すかが大切です。これにより、腕が弓のようにしなり、ボールにスピードと伸びが出ます。私もこの癖が、体に染みついています。



画像は西武ライオンズの涌井投手の連続写真です。下段の左から2枚目~4枚目の図を見れば明らかですが、右肘を突き出すことで右腕が弓なりにしなっています。

この準備として、投手は、テイクバックトップで右肘を投球するのと反対方向に突き出します。上段の一番右の図がそうです。

では、テニスはどこが違うのでしょうか?

実は、テイクバックトップは、腕の曲げ方がテニスと野球とで、似ています。フェデラーのサービスの写真を見てください。



涌井の投球フォームとは写真の角度が違うのでわかりにくいですが、右から2枚目で、フェデラーの右肘は後ろに突き出されており、涌井の上段右端の写真とよく似た形です。

また、テイクバックトップからフォロースルーに代わるタイミング(涌井の下段左端とフェデラー右から4番目)も、まだ、よく似ています。

しかし、フォロースルーは両者ではかなり違います。フェデラーの左から3番目の写真を見ると、フェデラーの右肘は、手首やラケットと比較しても、後ろ側にあります。涌井の下段左から2番目~4番目とは、右肘の位置が、全く違います。

野球では、フォロースルーにおいて如何に右肘を前に突き出すかが大切でしたが、テニスではその正反対です。テニスのサーブでは如何に右肘を「後ろにおいておくか」が大切なのです。これを守らないと、スピン系のサービスを打つことはできません。

若いころに野球(投手)をしていた私は、(年齢の割には)比較的早いスライスサーブを打つことはできます。それは、スライスサーブの場合は、右肘を突き出してもよいからです。

しかし、その癖が残っている限りは、どんなに頑張っても、スピンサーブを打つことはできません。

この癖を修正するのは、子どものころからの”投球フォーム”を変えるのですから、なかなか厄介です。今、2つの方法を試しています。

一つは、テイクバックからフォロースルーまで、できるだけ長い時間、ラケットヘッドをネットの方向(0時の方向)に向けるように心がける、という方法です。

もう一つは、右肘を”ちょうつがい”の支点としてスイングする方法です。右肘が支点となるので、右肘は動かず、したがって、自動的に右肘がネットと反対方向を向いたままになるという方法です。

両方とも、脳内イメージの問題ですから、実際にはそうはならないでしょう。しかし、このイメージで、右肘が前に出る癖を直せないかと期待しています。

コート上では、今のところはまずまずはうまくいっているのですが、あまり強いスピンがかかっているわけでもないので、まだ、改良の余地はありそうです。

さらに、オンコートで試してみます。

2011年7月3日日曜日

ウィンブルドン2011男子決勝戦を観戦しながら ナダル-ジョコビッチ

ウィンブルドン2011男子決勝戦を前に ナダル-ジョコビッチ」で書いたように、ナダルがこの試合でどんなメンタリティーを見せるかを興味の中心に、男子決勝戦を観戦しています。気になったことを、リアルタイムで綴ってみようと思います。


第1セット第1ゲーム…最後のポイントは、ジョコビッチのバックハンドにナダルのフォアハンドが打ち負けました。何となくこの試合を象徴するようなポイントで、ナダルから見るといやな感じです。

第1セット第8ゲーム…二人のここまでのプレーは、ほぼ完璧です。解説の土橋さんが言っていますが、二人には無駄なボールが1本もありません。完全すぎて、逆に、ドキドキするところがないのですが、それはまるで、壮大なクラシック曲の序盤のような感じです。

第1セット第10ゲーム…30-30からナダルのセンターにエースを狙ったファーストサーブがフォルト。ゲームを落としたくない、サーブでポイントを取りたいというナダルの気持ち(やや焦り)が見えます。一本のサーブ(フォルト)というほんのちょっとしたことですが、時にはこういうことが大きな結果として、表れてくるのではないかと思います。実際、そのポイントは、激しい打ちあいの末にジョコビッチがとりました。土橋さんは、ジョコビッチは、ナダルに打たせて無理をさせるという戦略を取っているとコメントしています。(納得です。)あのナダルに対して打たせることができるとは、ジョコビッチはすごい(余裕がある)ですね。

第2セット第2ゲーム…第1セットを落としたナダルは、30-30からスマッシュをミスします。徐々に、ナダルに焦りが見え始めています。一方、ジョコビッチは、相手のミスを誘う余裕が出てきています。土橋さんの解説の通りです。このあたりからのナダルのメンタリティーを、私は見守りたいと思っています。

第2セット第2ゲーム…土橋さんが、ナダルがサービスに頼ってしまっている(ストロークの打ち合いで押されているため)と解説しています。確かに、ナダルのストロークが、完全に封じられてしまっています。第1セットで、一度、ナダルがサーブアンドボレーでポイントを取ったことがありました。あれも、その象徴だったのかもしれません。

第2セット第3ゲーム…土橋さんは、ナダルがフォアハンドエースを取ったところで、苦しくてもナダルは戦略をかえずに、自分のプレーをしようとしているのが素晴らしいと評しています。確かに、戦略子を変えないことが、ナダルにとって最も有効な戦略だと思います。しかし、一方で、15-15のポイントでは、ナダルは(芝のコートですのであたりまえかもしれませんが)ショートゲームでポイントを取りに行きます。私には、ナダルが、逆に、戦略を変えてしのごうとしているのではないかと、土橋さんとは違う印象を持っています。

第2セット第4ゲーム…ナダルがノータッチのサービスエース2本で30-0とリードします。しかし、依然として、サービスエースに頼らざるを得ないナダルの苦しさが伝わってくるようです。

第2セット第6ゲーム…第2セットも、すでに、ジョコビッチの4-1になりました。(と言っても、ナダルの1サービスダウンだけですが。)ナダルは、試合前のブログでも書きましたが、試合中に戦略を細かく変えてくるタイプではありません。だからこそ、ここからのナダルは、かなりつらいと思います。ジョコビッチやナダルのような、完成されたプレーヤーの試合では、昔のような試合途中で流れがガラッと変わることは、あまりありません。私は、ナダルは、最後まで自分のプレーに徹したほうがよいように思います。つまり、オープンコートを作って、フォアハンド一発で決めに行くプレーです。それが、うまく機能しなかったとしても…。

第2セット第7ゲーム…第2セットは、第1セットよりもはるかに簡単にジョコビッチが取りました。このレベルのテニスでは、もう、逆転はあり得ないでしょう。ナダルも、それは分かっているはずです。私は、この数年間、テニスの試合をほとんど見ていないのでよくわかりませんが、ナダルがグランドスラム大会の決勝戦で、ここまで、手も足も出ずに、言葉は悪いですがみじめに戦ったことはあるのでしょうか?ここで、まだ私は、ナダルのメンタリティーに注目をしています。

第3セット第1ゲーム…ナダルが最初のポイントを得意のフォアハンドのウイナーで取りました。ノータッチエースです。ナダルには、これしか残っていないと思います。土橋さんも、ナダルが自分の持ち味のプレーでゲームを取ったことを評価しています。次のポイントも、フォアハンドの深い球でポイントを取りました。このレベルのプレーヤーの試合では、おそらく、これが最後のチャンスなのかもしれません。

第3セット第1ゲーム…初めて、ナダルが、ジョコビッチのサービスをブレークしました。が、試合全体を見た時には、まだ、ジョコビッチ優位は揺らいでいません。この程度のブレークは、おそらく、渦を巻きながら、少しずつ流れていく一つの試合の、渦の枝でしかないはずです。しかし、私は期待したいのです。ナダルが、これをきっかけに、今まで以上のスーパーショットを連発する新しいナダルにメタモルフォーゼすることを。それこそが、スポーツ界全体のスーパースターの登場を意味するからです。

第3セット第4ゲーム…土橋さんが、ジョコビッチのテンションが少し落ちていると指摘しています。ジョコビッチは、試合中に「遊んでしまう」癖があり、これが、ジョコビッチの弱点の一つでした。おそらく、それは、ジョコビッチの性格的なもの(集中力が100%維持できない)と、もう一つ、不安を打ち消すためと、2つの意味があるのでしょう。今年に入ってのジョコビッチは、私が見ている限りは、この「遊び」がありませんでした。それに合わせたように、圧倒的な強さを見せています。第3セット第3ゲームで見せたドロップショットとロブの組み合わせ(遊び)が、少し気になります。ジョコビッチのメンタルにも、少し注目してみたいと思います。

第3セット第7ゲーム…ジョコビッチがサービスを落とし、1-5になりました。これで、逆に、ジョコビッチはこのセットをあきらめ、次のセットの準備に入れます。が、第7ゲームの落とし方がよくない。最後は、ボールを追いかけもしませんでした。このあたりに、ジョコビッチのメンタルの弱さがよく見えます。メンタルでかなり強くなった今年のジョコビッチですが、かつての弱虫ジョコビッチが、むくむくと頭を持ち上げてきています。ジョコビッチが、第4セットの準備に入るどころか、むしろ「切れた」状態になってしまっています。ウィンブルドンというのは、これだけメンタルが強くなったジョコビッチをかえてしまうほどに、それほどまでに恐ろしい場所なのでしょうか…。

第4セット第1ゲーム…15-30でジョコビッチがピンチだったのですが、ナダルのフォアハンドが大きくアウトしました。しかし、ナダルは、とにかく、フォアハンドを思い切り打っています。このアウトは、むしろ、よい方に効いてくるような気がします。

第4セット第1ゲーム…ジョコビッチのサービスが、こわごわになりかけていたのですが、最後のポイントではしっかりと打ち込み、ゲームをキープしました。面白いもので、きちんとサービスを打てれば、ポイントを取る確率はあがあります。土橋さんも言っていますが、このゲームのジョコビッチのサービスキープは、ナダルの流れをいったん止めるという意味でも、重要だったと思います。

第4セット第2ゲーム…テニスは面白いですね。このゲーム、ナダルはボールを強く打つことに専念し、ジョコビッチは自分の中の弱気に打ち勝とうとしている。二人が、コートの上で、相手と戦いながら、自分とも戦っているのですね。このゲーム、ジョコビッチが取りました。しかし、ナダルは、気にせず、フォアハンドを打ち込み続けるべきです。まだ、望みが全くないわけではないはずです。

第4セット第3ゲーム…ジョコビッチのサービスは、ナダルのリターンがネットインすることで決まりました。ナダルの強打でもなく、ジョコビッチが”びびった”わけでもない。これがテニスですね。本当に面白い。こんな運命の女神にもてあそばれながら、一方で、二人は、自分との戦い、そして相手の戦いを続けていきます。

第4セット第4ゲーム…両プレーヤーは激しく打ち合います。まるで第1セットに戻ったようです。土橋さんが、一進一退ですよね、とコメントしています。その中で、ジョコビッチのサービスが、時々、置きにいくような弱気な打ち方になっていることが気になります。土橋さんは、サービススピードをコントロールして、確率を上げることを重視しているとコメントしています。

第4セット第6ゲーム…第5ゲームの最後のポイントで、ジョコビッチのサービスは、それほど速くも深くもないものの、しっかりと振り切ったサービスでした。ジョコビッチのメンタルが、完全に戻ったとは思えません(顔の表情には、まだ、不安が見えます)が、しかし、ジョコビッチも自分と戦っています。今シーズンで、マシンのように表情を変えずに戦ってきたジョコビッチですが、今年、私が見た試合では、初めて、こんな弱気な表情を見ました。

第4セット第8ゲーム…そろそろ、試合が大詰めです。両者とも、まだ、完全な決め手を得ることができていない中で、拮抗した第4セットが進んでいます。ジョコビッチが、このゲームをブレークしました。このポイントが、私がこの試合の中で見た、一番よいジョコビッチのポイントのように思いました。ナダルの厳しいサービスを合わせずにしっかりとドライブ系でリターンしたこと、ラリーの最後に強くヒットせずにナダルのエラーを誘うことができたこと。これで、ジョコビッチのマッチゲームとなりますが、まだ、ジョコビッチが、メンタルの弱さから抜け出したかどうかは、わかりません。表情には、まだ、不安があるように見えます。

第4セット第9ゲーム…ジョコビッチのマッチゲームです。30-30になりました。このポイントは、当然ですが、重要です。ジョコビッチが、ここでサーブアンドボレーを使ってきました。今までと違うパターンを使うことは、ある意味、勝負をかけたのでしょう。一本で、マッチポイントを取りに来たと思います。

試合終了…ジョコビッチは、一本でマッチポイントを取りました。もし、ここで一本で取れなかったら、再度、ジョコビッチの弱気が顔を出したかもしれないと思うと、それを見てみたかったような気もしますが…。まずは、素晴らしいジョコビッチの初優勝でした。これから、ジョコビッチは、ますます強くなるでしょう。また、これまでのパワーテニスだけではジョコビッチには勝てないと知った今後のナダルの変化にも注目をしたいところです。

ウィンブルドン2011男子決勝戦を前に ナダル-ジョコビッチ

昨日の女子決勝は、あまり興味がわかなかったウィンブルドンですが、男子決勝については、なんとなく気になって、WOWOWで観戦しています。また、今日も、生放送中に書いています。

と言っても、まだ、二人は、センターコートに現れていません。今から、ファイナルが始まるのです。

どちらか勝かというような予想をするつもりはありません。私は、今回の決勝について予想ができるほどテニスが分かっているわけではありません。ただ、一つだけ、決勝を前に、なんとなく、胸騒ぎがするのです。

それは、ナダルです。

ナダルは、この試合の前に、準決勝で勝利し、決勝に進んだにもかかわらず、ランキング1位から落ちてしまいました。

また、今年は、まだ一度も、ジョコビッチに勝っていません。

さらに、この大会中、一度足を故障して、痛み止めを飲みながら戦いました。

昨年のチャンピオンで、ナダルには守るものしかないのです。(本人は、そんな風に感じる選手ではないですが。)

ナダルの中に、どんなモチベーションがあるのか、私には理解するすべもありません。しかし、それは、少なくとも、昨日の女子決勝のクビトバのような失うものが何もない挑戦者のモチベーションではありえません。

今日の決勝も、おそらく、ジョコビッチが優勢な展開になるでしょう。

ナダルは、決して試合巧者ではありません。策を駆使して、ペースをかえたり、戦略を大きく変えたりして戦う選手ではありません。

しかし、その代わりに、ナダルは決してあきらめません。その試合で自分が出せるすべてを出し切ろうとするでしょう。それがナダルの戦い方です。

私は、この試合は、ナダルにとっては、背中の上にかかるものが多すぎるのではないかということを心配しています。昨年の優勝者としての連覇、ナンバー1への返り咲き、今年初めてのジョコビッチへの勝利、けが・・・。それらはすべて、希望よりも重荷になる荷物です。

ナダルが、もし、この試合で一度燃え尽きてしまったとしても、私は、不思議はないように思うのです。ちょうど、ウィンブルドンの後には、しばらく試合出場を予定していないそうですし…。

間違いなく、ナダル100%の力で戦うでしょう。どんなに劣勢になっても、ナダルは、最後まで100%を出し続けるでしょう。その時に、ナダルが、どんなに戦っても壁を打ち壊すことができなかったとしたら・・・。私は、それを心配します。それは、悲しい物語になるかもしれません。

それでも、戦うナダルの姿を、我々は、この試合を通じてじっと見守るのです。複雑な気持ちの中で戦う、少年のような心を持ったこの世界トップのレフトハンダーを、我々は、静かに応援するだけです。

さあ、いよいよ、決勝戦の始まりです。

決勝戦観戦記に続く。)

テニスに関係ない話: ツォンガ ウィンブルドン2011男子準決勝

ここのところ、テニスに関係ない話ばかり書いていますが、今回も、実は、テニスとは関係ない話です(笑)。タイトルでテニスの話だと思った方、申し訳ありません。

別のタイトルでも書いたのですが、私は、このところ、何年かぶりにテニスを見ています。WOWOWにも、初めて加入しました。

さすがにフェデラーとかナダルとかのプレーは、どこかで見たことがあったのですが、一部の選手を除いては、初めてプレーを見る(名前だけは知っている)選手ばかりです。

この、フランスのツォンガも、その一人です。今回、男子準決勝でのジョコビッチ戦で、初めてそのプレーを見ました。テニス選手としては、がっしりとした体格の黒人系の選手です。フランスの黒人系テニスプレーヤーとして、なつかしい、ヤニック・ノアを思い出しました。

パリの地下鉄に乗るとわかるのですが、パリ(フランス全土?)の人口に黒人が占める比率は、おそらく、パリを訪れたことがない人が想像するよりは高いと思います。(どのぐらいなのでしょうか?)

したがって、フランスの黒人プロテニスプレーヤーがいることには、それほど、不思議な感じはしません。

実は私は、フランスのナントという街に行ったことがあります。フランスの西、ビスケー湾に面している古い町です。ビスケー湾は、そのまま、大西洋につながります。日本では、ナントの勅令という名前で知られていると思います。図は、Google Mapsで作成したナントの位置を示す地図です。



ナントは、本当に美しい町でした。ヨーロッパの街は、美しい町が多いと思いますが、ナントは、その中でも大きすぎず、小さすぎず、私の記憶にはよい印象しか残っていません。川を上りながらのクルージングでみたさまざまな古城のライトアップは、特に素晴らしかったです。

ナントは、実は、とても悲しい歴史を持った街です。フランスが、アフリカから黒人を奴隷として連れてきたときに、その奴隷船が停泊する街だったのです。いわゆる、奴隷貿易で栄えた街だったと聞いています。今は、湾が浅くなって、貿易機能を失い、その結果、歴史がそのまま残っている(だから美しい)街だったと思います。(ヨーロッパには、そういう街がいくつかあるようですね。)

アメリカでは、初めての黒人大統領が生まれましたが、黒人コミュニティーへの差別は依然として生活のいたるところに残っています。フランスではどうなのかなぁ…と、試合を見ながら、ふと思いました。

2011年7月2日土曜日

プロスポーツ選手に聞いてみたいこと

私の仕事は、ちょっと変わった公務員のような仕事なので、民間の会社員ではないのですが、まあ、広い意味ではサラリーマンです。だから、というのが正しいのかわかりませんが、普段、プロスポーツ選手と話をする機会はありません。

それが別に不満でも、困っているわけでもありません。ただ、いろいろな試合を見たり、また、いろいろな活動を見たりすると、時々、選手に直接聞いてみたいなぁと思うことがあります。

最近でいうと、プロ野球・日本ハムファイターズの二塁手の田中賢介選手。顔はちょっといかつい(すみません!)けれど、でも優しそうな雰囲気の日ハム選手会長です。(2011年6月現在は、故障のために試合には出場されていません。一日でも早い復帰を期待しています。)

さて、最近、田中選手がアウトにした数だけ乳がん検診のためのマンモグラフィー検診をプレゼントしているという日本生命のCMが、テレビでよく流れています。BGMもとても良い曲です。ゆずという二人組の「虹」という歌のようですね。私は、普段、ほとんど音楽を聴かないのですが、ゆずというハーモニーの美しいデュオがいることは、知っています。

このCMは、とてもとても良いCMです。田中賢介選手の誠実さとまじめさが伝わってくるCMです。私は、このCMが、理由はよくわからないのですが、とても好きです。おそらく、映像から田中選手の誠実さが伝わってくるからだと思います。このような活動を映像にすることは、有名人のボランティア行為の押し売りともとられてしまうこともよくあります。にもかかわらず、思い切ってCMにした勇気に、素直に感銘しています。

その中で、「恵まれない子どもに」というような抽象的なものではなく、具体的な乳がん検診の支援ということをプロ野球選手である田中選手がなぜ選んだのかを、私は知りたいのです。知らなくてはならないことではないのですが、自分の中で、なぜ、自分がこのCMに感銘するのかを理解したいという気持ちと、どこかでつながっています。

上の日本生命のサイトでは、田中選手自身のカラーがピンクなので、同じピンクリボン活動に共感して・・・・というようなことが書いてありますが、それだけの理由なのですかね?

書評:「二つのファイナルマッチ 伊達公子・神尾米最後の一年」(中) ナンバーワンになるということ」でも少し書きましたが、私は、プロのスポーツ選手については、その作品であるプレーを見て理解をすればよいと思っています。一方、プライバシーは選手自身のものです。本人以外が知る必要はないものだと思っています。

ただ、今回の田中賢介選手のCMのように、メディアを通じて入ってくる事柄について、その背景や理由を知りたくなることがあります。今回で言うと、田中選手に直接、聞いてみたいなぁと思うわけです。

プレーそのものについてであることも、今回のようなプレー以外のことについて知りたい場合もあります。いずれにしても、作品に感銘した時には、その理由や背景にあるものについて理解したくなるのです。

最近は、ブログや電子メールなどがありますので、その機会はかつてよりは多くなっています。メールを送っても、事情によっては返事をもらえないこともあるでしょうが、それ以前に、相手に負担をかけるメールは送りたくないというのが正直な気持ちです。

選手にとっては、プレーヤーとして最高のパフォーマンスを見せることが第一目標であり、それだけでも、十分に大変なことだからです。