2011年6月29日水曜日

なぜ、ウインブルドンはそこまで素晴らしいのか?

今日(6月29日)、男子の4強がそろい、男女ともに、ウインブルドン2011が、いよいよ佳境に入ります。世界のトップが集まるグランドスラム大会の、その中でも最高峰と言われる全英オープン。2011年のピークが、いよいよ、あと数日に迫ってきました。

なぜ、ウインブルドンがそこまで素晴らしいのか。ふと、そんなことを考えてみました。

よく考えてみるとすぐに気が付くことですが、我々がテレビで見るテニスの試合、特にウインブルドンのような大きな大会では、出場する全選手が、ゲームというその短い時間のために、人生のすべての照準を合わせてきます。体調やテニスの調子はもちろん、時差ボケ、道具、戦略、メンタル、予算、もしかしたらプライベートまで、あらゆることを調整して、その結果をもってコート上にやってくるわけです。大会規模が大きければ大きいほど、調整は徹底し、いわゆる”仕上がっている”状態が出来上がるのです。

我々は、テレビのチャンネルを合わせたら、選手がスタジアムに入ってきて、試合をして、その結果として勝者と敗者が決まる。この、切りだされた試合の部分しか見ることがないのですが、実は、コート上にあるのは、二人の選手がその瞬間のために人生を注ぎ込んで準備した最高の”作品”なのです。

だからこそ、この作品は、とても希少で貴重です。考えてみてください。国も、年齢も、話す言葉も、家族構成も、食べるものも、生まれ育った環境も、すべてが異なる二人が、地球上の全然違う場所で、違う方法で準備した二つの作品を、たった数時間だけ、同じコート上に展示するのです!!

そして、残酷にも、どちらの作品が優れているかを決められてしまう。

それは、考えようによっては切ないけれど、でも、だからこそ、ウィンブルドンは、あんなに素晴らしいのでしょう。

我々、観客は、難しく考える必要はありません。その作品(試合)を楽しめばよいのです。特に、二つの作品の素晴らしさが拮抗するとき、つまり競った試合では、ドキドキしながら見守ればよい。

でも、目が肥えてきて、より深く作品を理解することができるのなら、我々はこの希少で貴重な時間を、さらに楽しむことができるでしょう。そのために、ウインブルドンのような大きな大会のテレビ放映では、解説者が作品とその作者を解説してくれます。

我々が作品を楽しむときに、必ずしも、解説者の言うとおりに楽しまなくてはならないわけではありません。見る人によって、楽しみ方はいろいろです。でも、よい解説者は、「なるほど、そういう見方もあるのか」「そうやって見たら今のプレーは理解できるのか」と、納得させてくれます。

解説者には、どうやって作品を楽しめばよいか、どうやって作品を理解すればよいか、観客をうまく導いてくれることを期待しています。テニスに深く精通した解説者には、作品(プレー)の裏に隠れた努力や能力、経験、もしかしたら人格までが見えてくることがあると思います。時には、それが、我々の作品への理解を助けてくれることもあると思うのです。

ウインブルドン2011 ベスト8が出そろったものの…

本日、6月29日、日本はまだ梅雨が終わっていません。

ウインブルドンも、例年のように天候がコロコロと変わっているようですが、全英オープンは順調に試合が進み、男子はベスト8が、女子はベスト4が出そろいました。

”鉄板”と呼ばれる男子の上位シードの4人は、ナダルの足の故障が気になるものの、予想通り、ベスト8に全員が残っています。とあるブログサイトに、大会前に、「ウインブルドン男子のベスト4を予想しましょう」というサイトがあった(ここ)のですが、私はこんな風に書きました。

さて、ウインブルドン2011のベスト4を予想しようとしたのですが、すごく難しいです…他の人と違う予想をするのが(笑)。
考えてみたら、今のトップ4(ナダル、ジョコビッチ、フェデラー、マレー)の組み合わせ以外は、思いつきません…という人ばかりなのではないかと思います!
ベスト4の4人を当てるのではなく、この4人になるか、または一人でも違うか、どちらかを選択せよと言われても、前者を選びますね(笑)。


私だけではなく、おそらく、多くの人が、同じ意見であったのではないでしょうか。そして、今のところは、その4人が、ベスト8に残っているわけです。

一方で、女子のベスト4を予想するのは、非常に難しいことも、どなたも異論はないでしょう。ベスト4を予想するどころか、ベスト4に残る選手を一人あてるだけでも易しくないという、大混乱状態(群雄割拠?)です。これは、全英オープンだけの話ではなく、直前の全仏オープン2011でも、第1シードのウォズニアキ、第2シードのクレイステルス、第3シードのズヴォナレーワらが4回戦を前に敗退し、優勝は第6シードの李娜(Na Li)だったわけです。(その李娜も、全英オープン2011では早いラウンドで敗退しました。)

4、5、8、9、24、32、-、-
1、2、3、4、10、12、-、-

この2つは、今回の全英オープン2011での、女子、男子のベスト8に残った選手のシード順を表しています。男子は、確かにトップ4は”鉄板”ですが、その後が安定していない(一桁シード選手がベスト8に残っていない)ことがわかります。一方、女子は、誰が勝ちあがるのかを想像するのは容易ではないですが、ノーシードは男子と同じ2名、一桁シード選手も男子と同じ4名と、全体のバランスを見ると、思っていたほどは”混乱”状態ではないことが分かりました。

さて、女子のベスト8を見ていると、もう一つ、気が付いたことがあります。ベスト8に残った8名の選手のうち、姓の最後がvaで終わる選手が4名もいます。つまり、半分がvaで終わる選手なのです。スラブ系言語国では、女性の姓はvaで終わる文法があるので、出身国が分かりやすいのです。(昔懐かしいナブラチロワのお父さんは、ナブラチルさんでした。)

これらのことは、私には、偶然ではないように思えます。

きちんと調べていないので想像を交えて書いていますが、私は、テニスの世界では、男子よりも女子の方が、世界の各国の情勢とランキングが連動しやすいように考えています。(このことは、稿を改めて、議論したいと思います。)

いよいよ、スラブ系諸国が、テニス界で勢力を拡大し始めたのです。そして、2011年の女子テニス界は、そのターニングポイントなのかもしれません。全英オープンの女子シングルスで上位ランキング選手が早期ラウンドでバタバタと敗退し、その一方で”va旋風”が吹き荒れていることは、偶然ではないと思います。


2011年6月18日土曜日

書評:「二つのファイナルマッチ 伊達公子・神尾米最後の一年」(中) ナンバーワンになるということ

佐藤純朗氏の「二つのファイナルマッチ 伊達公子・神尾米最後の一年」の書評(前編)の続きです。

この物語は、伊達の、そして神尾の引退で終わるのですが、二人の引退までの道は、全く違うものでした。

物語の終わりに、神尾は、右肩痛との戦いの果てに、いよいよ引退を決意します。本人の苦悩の深さは誰も理解することはできないでしょうが、故障が引退の主な理由であったことについては、誰もが納得するでしょう。

一方、伊達の引退の理由は、1年にわたり、世界のビッグトーナメントの場で伊達の取材を続けた佐藤をもってしても、明確にはできなかったようです。

当時、伊達の引退の理由は、スポーツ選手の引退というよりも、有名人の引退として、様々な憶測が飛び交ったように記憶しています。したがって、佐藤本人は決して認めないでしょうが、この著作がその謎解きを期待した読者に向けて出版されたことは、想像に難くありません。(とはいえ、この本を「伊達公子引退の謎」というような品位のないタイトルにしなかったことは、佐藤の譲れない線だったのでしょう。)

テニスプレーヤーは、テニスコートの上で勝負というドラマを演じます。ドラマをじっと見つめるファンとしては、そのプレーの理由を知りたいというのは当然の心理でしょう。その意味では、読者はがっかりしたかもしれません。この作品を最後まで読んでも、伊達の引退の理由について納得できる説明はありませんでした。

引退するかどうかはプレーヤー自身が決めることです。プレーヤーは、コート上の素晴らしいプレーをファンに見せたいと願うでしょうが、引退に至る苦悩や理由を見せたいとは思わないはずです。したがって、私は、伊達の引退の理由について知りたいとは思いません。ただ、神尾ほどの大きな故障がないように見えた伊達が、グラフと対等に戦ったその同じ年に引退することには、やはり違和感を感じました。

この著書で伊達についてのクライマックスは、2箇所あります。二つとも、グラフとの戦いです。一つは有明のフェデレーションカップ、もう一つはウインブルドン準決勝です。実は、私は、後者のウインブルドン準決勝で、センターコートでのあるシーンについて記述されていることを期待して、この本を読んだのです。

それは、ウインブルドン準決勝で、セットオール(1-1)になった後、日没順延になった翌日の、サスペンデッドゲームについてです。といっても、第3セットのゲームそのものではありません。第3セットが開始される前の、いわゆる試合前のウォーミングアップ練習についてです。

試合前の二人のウォーミングアップでのストローク練習が、私の中で、強く印象に残っています。記憶はあいまいなのですが、グラフは、まともに伊達と打ち合おうとしなかったのです。少しラリーが続くと、わざとボールをアウトさせて、伊達にまともな練習をさせなかったのです。

それは、立ち上がりがよくない伊達に対して、少しでも調子にのらせないというグラフの計算だったように、私には見えました。

それは、ルールに反する行為ではありません。しかしそれは、普段のコート上で見せる美しい姿でも、女子ナンバーワン選手の堂々とした姿でもありませんでした。勝つためにであれば、ルールの範囲でどんなことでもする、いやどんなことをしてでも勝つ(勝つ可能性を高める)ことが、トップ選手に課せられた宿命であるのだと、私は知らされたのです。

全くの想像でしかないのですが、伊達は、自分が目指すナンバーワンというポジションが、そういうポジションなのだと知って悲しくなったのではないかと、そんな風に想像するのです。ナンバーワン以外の選手にとってたどり着きたいという願望の対象がナンバーワンなら、ナンバーワンの選手にとって守らねばならないという義務の対象がナンバーワンなのです。願望の対象としてこれほどまでに美しく輝いて見えるその地位は、義務になった瞬間に輝きの姿を失ってしまうこともあるということです。

このことは、著作の中では触れられていませんでした。きっと、私の考えすぎなのでしょう。ただ、私の脳裏からは、あの、試合前のウォームアップのグラフの姿が、今でも消えずに残っているのです。

神尾は、けがを押してトーナメントに参加するために摂取する痛み止めの薬が多すぎた場合に、引退後の日常生活において副作用を及ぼすのではないかと心配していたと、この著書にはあります。ベストのプレーができなくなったこと以外に、この心配も引退の理由の一つであったことは、想像に難くありません。

全く異なる道を通って引退という最終地点にたどり着いた伊達と神尾の二人ですが、著書の中で、一つだけ、全く同じことを言っています。「自分の人生は、テニスだけではない。選手としての人生が終わった後には、それ以外の人生が待っている。その人生も豊かなものにしたい。」勝利することが目標のすべてではない、優勝することが究極の目標とは限らないという二人の考え方が、そこにはあります。

すべての選手には、試合で勝つために、トーナメントで優勝するために戦ってもらいたい。そのために、最高のプレーを演じてもらいたい。しかし、優勝の結果として後に残るのは、「記録」という紙の上の事実だけです。紙になった事実は、すでに誰のものでもありません。もはや、その選手のものですらないのです。

したがって、私は、優勝という事実がいつまでも残る最も大切なことだとは思いません。優勝に価値があるのは、両者が全力を尽くして戦っているその瞬間までです。勝つために全力を尽くすその姿は、確かに美しい。でも、その瞬間が過ぎ去った後に残る大切なこととは、いったい何なのでしょうか?

私は、1980年代の後半に活躍したスロバキアの男子テニス選手であるミロスラフ・メシールが好きです。「好きだった」ではなく、「今でも好き」なのです。すでに引退したプロスポーツ選手について、「(今も)好きだ」というのと「(当時)好きだった」というのはかなり異なると思いませんか?

メシールを好きなのは、彼が強かったからではありません。たとえば、メシールは1988年のソウルオリンピックで優勝していますが、それが、私がメシールを今でも好きな理由ではありません。勝ち負けの結果でプレーヤーを好きになるのではないのです。

メシールが試合の中で見せるプレースタイルは、その戦略は、そしてそのプレーマナーは、私には、彼が周到に時間をかけて作りだしたオリジナル作品のように見えました。単なるスポーツを超えた、メシールの人格を反映した”作品”に、私の目には映ったのです。その”作品”は、今でも私の中で根付き、体の一部となっています。私は、その”作品”が好きになり、そして、その作者であるメシールが好きになったのです。(このことは、以前、「本当のプロ選手のプレーマナーについて」という記事の中で書きました。)

選手が作り出す最高のプレーという”作品”の中で、その理由を知りたいというのは、作品に対する敬意からくるものです。選手について知りたいことがあるとすれば、選手の個人的なことではなく、最高のプレーという”作品”の背景にある”モノ・理由”なのだと思います。

この著書が、伊達と神尾という二人のコート上での”作品”と、その背景を浮き上がらせるまでには至らなかったのは、残念でした。私は、「本当のプロ選手のプレーマナーについて」に書いたウインブルドンのエドバーグ戦での潔さなど、もし、メシールに会うことがあればぜひ聞いてみたいことが、20年の時を超えて今でもあるのです。

2011年6月17日金曜日

書評:「二つのファイナルマッチ 伊達公子・神尾米最後の一年」(前) ウインブルドン2011を前に

佐藤純朗氏の「二つのファイナルマッチ 伊達公子・神尾米最後の一年」というノンフィクションを読みました。奥付には、出版が1998年とあるので、もう、13年も前に書かれたことになります。1996年の伊達と神尾の全豪から全米までの世界ツアーが物語の主な舞台になっています。この年の終わりに、伊達が、そして神尾が引退をするまでの約1年間の物語です。

そして、今年(2011年)も、もうすぐ、ウインブルドン(全英オープン)テニスが始まります。

このノンフィクションの二人の主人公である伊達、神尾も、それぞれの姿でまた、今年のウインブルドンに登場します。神尾はWOWOWの解説者として、伊達は(驚くことに)選手として。

神尾の解説の担当はWOWOWの第一週ということなので、神尾が伊達の試合を解説する可能性は高いでしょう。15年の時を経て、このノンフィクションで描かれた二人のウインブルドンが別の形で再現し、選手と解説者として交わることが、何か、面白いような、一方で残酷なような、不思議な気持ちになります。

この書籍の中では、二人ともが主人公ではありますが、やはり、伊達が主役という印象は否めません。1996年は伊達がフェデレーションカップでグラフを破った年であり、逆に神尾は前年度の好調から一転して肩のけがで苦しんだ1年ですので、それは仕方のないことでしょう。

この二人の対比が、著者の意図と関係なく、残酷なスポーツの一面をさらしています。勝つものは脚光を浴び、そうでないものは主役になれないプロスポーツの現実。このノンフィクションは、神尾にはあまりおもしろくないものでしょう。しかし、忘れてはいけないのは、その神尾自身が、おそらく、自分も無数の選手に引導を渡し、彼女らを脇役に、舞台そでにと押し出してきたのです。この、単純にして明快、そして容赦のないたった一つの法則。それがプロスポーツというものです。

さて、読了後の第一印象ですが、このノンフィクションは、残念ながら、私には、あまり大きな感動を与えてくれることはありませんでした。読んだ後に、伊達の、そして神尾の、引退の決意までの心の道のりが私に伝わることはありませんでした。

佐藤は、4大トーナメントに参加する伊達と神尾を、丁寧に追いかけます。それを通じて、大きな田舎の全豪オープン、ファッショナブルで個人主義の全仏オープン、伝統と格式が全体を支配する全英オープン、喧騒と商業主義に包まれる全米オープン。この全く異なる4つの会場の雰囲気を、生き生きと、その場の空気の暑さと冷たさの両方を感じさせてくれました。

しかし、伊達の苦しみと、神尾の苦悩、二人の選手が引退に至るまでの内なる姿を掘り起こすまでには至らなかったようです。著者の佐藤は、おそらく、心優しく、選手への思いやりを何よりも大切にする人なのでしょう。読み進むにしたがって、伊達や神尾の心の中よりも、むしろ佐藤自身の人柄の良さが、文章を通じて、読者に伝わってきたのが、むしろ皮肉ではあります。

佐藤は、取材を通じて、常にプレーヤーに敬意を払います。多くの取材者が、マスコミが、選手をまるでタレントのように扱い、尊重も尊敬もしないことに、憤りを感じています。無理なインタビューを選手にぶつけることは決してなく、伊達に至っては、最後までインタビューで緊張していたようです。選手にぶしつけな質問をすることで、その選手の本質をむき出しににするなどということは、佐藤には許されることではなかったのでしょう。

その代わり、いやだからこそ、佐藤は、海外での帯同を通じて、少しずつ選手に近づき、選手のチームと食事をしたり、買い物をしたりという距離にまで入っていくことができたのです。そこでの様子は、プライベートということで詳しいことは書かれていませんが、その場の和やかな雰囲気は、十分に伝わってきました。(ただ、伊達については、最後に超えることができない壁を知らされることになるのですが…。)

そんな佐藤の優しい性格が、二人のプレーヤー(特に、伊達公子)の心の底を覗き込むまでのインタビューには至らなかったのだと思います。

その点では、私は、やはり、この作品に対して、満足できたとは言えないのです。特に私が残念だったのは、インタビューが、選手を理解するすべてではないということです。言葉を交わさなくても、試合に臨む姿、試合に負けた後の様子、そして何よりも選手とほとんど目線で試合を観戦することで、佐藤は世界を転戦する二人の日本人プレーヤーの心の中を、救い上げる可能性があったような気がするのです。

村上龍は、言いました。「プロプレーヤーの人格は、そのプレーを超えることができない。」

私は、佐藤は、もっと、伊達や神尾の本質に迫ることができたのではないのかと、そんな風に思うのです。いや、場合によっては、本人たちよりも本人を理解することすらできたのではないかと…。

(続く)

2011年6月14日火曜日

メシールのテニス(31) メシールのフォアハンド(大胆な脳内イメージ)

メシールのフォアハンドを求めて、ずいぶんと、試行錯誤しました。テイクバックで右腕が、体の線よりも後ろにならないという原則を、オンコートで試してきました。

しかし、体の前に右腕とラケットを置いているつもりでも、自分のプレーをビデオで見ると、メシールとくらべると、腕もラケットも”後ろ”になっています。

そこで、今回、脳内イメージとして、図を用意してみました。

図を見ればわかりますが、脳内イメージでは、ラケットも右腕も、体の前、視野に入るぐらいのところにおかねばなりません。現実には、一番左側の図のようになるのですが。

これまでに延べてきたフォアハンドストロークを含め、上記を実現するための脳内イメージをまとめてみました。
  • テイクバックを小さく、フォロースルーを大きく。テイクバックが大きいということは、ラケットが体の後ろまで行ってしまう(左肩も入りすぎる)ということにつながる。
  • 打点(インパクトポイント)は、意識的に前の方で。(フラット系は打点が後ろでも打てるので、つい、後ろになってしまう。)そのためには、ボールがバウンドしたタイミングでフォワードスイングを開始する。
  • テイクバックで、ラケットは視野の範囲内におく。
  • テイクバックで、体が開くのはいけないが、左肩が入りすぎてもいけない。(左肩を入れようとすると、逆に、ラケットが体の右側に来るため。)
  • 必要なら右足を踏み出して打つぐらいで。(特に、左肩が入りすぎ、ラケットを後ろに引きすぎてしまう場合。)
  • フォワードスイングからフォロースルーにかけて、右肘をまっすぐ伸ばさない(できるだけ一定に曲げたままのイメージ)。
  • テイクバック、フォワードスイングで背筋をしっかり伸ばす。
  • 相手のボールがバウントしたタイミングでフォワードスイングに入る。(振り遅れないように!)
  • ラケットは下に引くこと。横に引いてはいけない。
  • 腰よりも低い球の場合はフォワードスイングでラケットヘッドが地面を向くイメージで。
  • フォワードスイングで脇を絞る(右肘の内側が上を向く。ラケットヘッドは下に下がる。ラケットヘッドが遅れて出る。打点が前になる。)
  • インパクトで右肩が下がらないようにする。(その分だけラケットヘッドを下げる。)
  • ラケットを横ではなく、縦に振るイメージを持つ。
  • フォロースルーでは、(腕が0時の方を向いている時に)ラケットの先が相手の方を向く。(ラケットを上に立てない。)つまり、手首に角度をつけすぎない。ひじも伸ばしきらない。
テイクバックを小さく・フォワードスイングを大きく、フォワードスイングからインパクトで右肩が下がらない、ラケットが下がる、背筋が伸びる、脇を絞る、右肘の内側が上を向く、、ラケットヘッドが遅れて出る、打点が前になる、ラケットを縦に振るイメージ…は、すべて、同じことを意味し、同じ方向を向いています。芋蔓(イモヅル)式に、すべて同時に達成できるはずです。

左肩を入れようとすると、入れすぎてしまう(私の癖かもしれませんが)ので、むしろ、やや体を開き気味ぐらいで、ちょうどよいかと思います。

左足ではなく、右足を踏み出して打つのは、かなり違和感があるかもしれません。が、メシールのテニスでは、それでよいのです。実際、メシールは、頻繁に、右足を踏み出してのフォアハンドを打っています。

右肘を曲げたまま打つのは、メシールのフォアハンドでは重要です。右肘を伸ばすと、脇が開いてしまい、ボールコントロールが不安定になります。右肘が曲がったまま打つことで、体と腕が、一体に動きます。この点は、もっと早く解説すべき内容でした。忘れていました。

右図の誤った脳内イメージの打ち方では、どうしても、テイクバックからフォワードスイングに切り替わる際に、手首が手の甲側に折れ曲がります。メシールのフォアハンドでは、この手首の手の甲側への切り替わりは、絶対にありません。つまり、右側の誤ったイメージでは、メシールのフォアハンドが打てないのです。

このイメージのためには、何度も出てきますが、背筋を伸ばすことが重要です。メシールのフォアハンドではテイクバックが小さくなりますので、上体の安定性は必須です。

今回の話は、、私個人のイメージがかなり含まれた内容ですので、人によって違うことは承知しています。あくまでご参考まで。

2011年6月10日金曜日

李娜(Na Li)のウインブルドン2011予想

全豪オープンで準優勝、全仏オープンで優勝の李娜(Na Li)は、おそらく、全英オープン(ウインブルドン)で、最も注目されている女子選手の一人でしょう。来週(6月13日~)は、全英オープンの前哨戦であるエイゴン国際(Eastbourne)が英国で開催されますが、クレーからグラスへとあわただしく切り替わるこの時期に、各選手が、李娜がどのように仕上げてくるのかが楽しみです。

さて、私は、初めて見る李娜のプレーが全仏オープンの決勝戦だったのですが、アジア人がグランドスラム決勝で戦うことの緊張感で、プレー内容をあまり覚えていないのです(笑)。にも関わらず、李娜のウインブルドンを予想してみようという、大胆な挑戦です(笑)。

李娜とは、いったいどんな選手なのだろうか、どんなパーソナリティーなのだろうか…。そう思って調べているうちに、この選手が、とても面白い選手だということが分かってきました。李娜のウインブルドンを考える時、参考になりそうです。

私は、李娜の全仏オープン決勝で、彼女が背負っているものの大きさを感じ、”ナ・リ(Na Li)の全仏オープン2011”というタイトルでブログに書きました。しかし、李娜自身は、中国が国家的にスポーツ選手を育成する、いわゆるナショナルチームを離れ、プライベートチームを作って戦う道を選びました。インタビューでも「私は、国を背負ってプレーしているのではないわ」と言っています。

一方で、"Can you tell the Chinese don't teach me how to play tennis?"という面白いことを、試合中に審判に対して言ったりもしています。「中国人にはテニスがわからないとでもいうの?」とでも言いたそうで、むしろ自分が中国人選手であることは意識していることが分かります。

これまでの李娜のインタビューをいろいろ調べてみましたが、「面白くて楽しいインタビュー」という表現がぴったりです。「昨晩は隣に寝ている夫(コーチとしてツアーに同行している)のいびきがうるさくて1時間ごとに起こされたから、調子は良くなかったわ!」とか、「お母さんに、自分の試合を見に来てよと言っても、私には私の生活があるからと、絶対に見に来てくれないのよ!」とか、自分や自分の家族のことをネタに、観客を楽しませてくれます。それ以外にも、インタビューで、懸命に面白いことを言おうとしているシーンを、何度も見ました。

李娜は、全豪オープンで準優勝し、全仏オープンで優勝しているトップ選手です。もっと、堂々としても誰も文句は言わないはずです。母国語ではない英語で、自分や自分の家族、身の回りの人を題材にしてジョークを言い、観客を笑わせる必要がない立場です。

李娜の英語は、下手ではないのですが、子どものころからアメリカに渡っている外国人ほどは流暢でははありません。ある程度の年齢になってから、世界を渡り歩くうちにだんだん身についた英語なのでしょう。(だから、時々、文法を間違えていたりもしています。)でも、李娜はそんなことに、気にもしません。自分から、いろいろなジョークを交えて、積極的に話します。

全仏オープン決勝直後のインタビューでも、「試合中、リラックスしているように見えましたが?」という質問に、「いいえ、実は、とても緊張していたの。でも、相手に悟られたくなかったので、ちょっとごまかしていたのよ(I was cheating)」と笑いながらコメントしています。あえて言う必要のない最後の一言に、やはり何か面白いことを言って楽しませたいという李娜の気持ちが見え隠れします。

引っ込み思案な日本人、自己主張の強い中国人、どちらのタイプともかなり違います。多くの人が「アジア人」から想像するイメージとは、李娜はかけ離れています。

ふと、国際会議のバンケット(パーティー)で、日本人と中国人は他国からの参加者に積極的に話しかけず、仲間内で集まってしまうことを思い出しました。李娜だったら、周りを気にせず、どんどん、いろんな人に話しかけていくでしょう。

プロテニス選手でありながら一度大学に戻り勉強をするなど、自分の道は自分で選び、自分のライフプランで歩み続けるのが、李娜です。組織や他人に依存せず、自分で考え、行動し、表現できる選手なのです。


全仏オープン決勝の放送で神尾米さんも言っていましたが、試合後の李娜は、試合中とは全く異なる、愛らしい表情をします。試合中は、眉間にしわを寄せて、とても厳しい表情なのです。試合が終わるとクールダウンし、試合結果を引きずらないタイプだということが分かります。

これらをすべて考えると、私には、李娜という選手の本質が見えてくるような気がします。

李娜は、オフコートではもちろん、オンコートでも、テニス選手としての自分を外から冷静に、客観的に見る”もう一人の自分”を持っているのだと思います。中国という、世界のテニスシーンではマイナーな国の出身である自分自身を楽しみ、観客がそれをどう見るかを理解しているもう一人の自分がいます。

おそらく、試合に負けた時でさえ、がっかりし、落ち込んでいる自分の姿を外から冷静に見るもうひとりの自分を失ってはないのでしょう。勝った時には、その喜びを観客と一緒に分かち合おうとジョークを飛ばす自分がいるのです。「日本人にはテニスが分からないとでもいうの?」なんて、試合中に審判に言う(しかも、英語で!)日本人選手がいるでしょうか?もう一人の李娜は、試合中ですら、自分が中国人選手であることを楽しんでいるように見えます。

ここまで、自分を客観的に見ることができる選手を、私は、初めて知りました。

テニスはスポーツですから、そんな自分を客観的に見るもうひとりの自分がいても、試合に勝てるとは限りません。メンタルをコントロールできることと、プレーをコントロールできることは、必ずしも同じではありません。だから、私は、李娜がウインブルドンで上位に来るか、優勝できるかまでは分かりません。

でも、李娜を応援したいと思います。李娜がアジア人だからではありません。李娜のインタビューが面白いからでもありません。

李娜を応援することで、李娜と一緒にウインブルドンを楽しむことができるからです。オンコートでも、オフコートでも、試合を楽しみ、勝敗を楽しむもう一人の李娜がいて、きっともう一人の李娜は、勝っても負けても観る者を楽しませてくれると思います。そんな李娜と一緒に、私もウインブルドンを楽しみたいと思います。


2011年6月5日日曜日

歩数の少ないフットワークについて

Na Liのテニスは、今のテニスから見ると少し古いタイプの、フラットドライブを中心としたテニスです。クラシックなスタイルが、決勝戦の相手のスキアボーネが、ループスピンとスライスを多用し、戦略を中心としたテニスをするために、その違いが際立っています。

しかし、Na Liの決勝進出は、ラケットが軽量化して厚いグリップでボールを高い打点でひっ叩くことが主流となりつつある現代テニスでも、ボールを下から上にこすりながら、厚い当たりでボールをしっかり打つクラシックスタイルが十分に通用することを示してくれています。

それは、決勝だけではなく、勝ち上がりにおいて、アザレンカ、シャラポワ(シャラポワは優勝候補だった)などを破っていることからも、わかることです。この二人は、まさに、新しいタイプのテニスプレーヤーだと言ってよいでしょう。

Na Liのプレーは、決勝戦においても、安定しています。この安定感は、腰を落としたストローク、そして腰を落とすためにしっかりとしたフットワークがあってこそです。Na Liは、素晴らしい安定したフットワークを見せてくれています。。

まさに、テニスは足ニスです。

Na Liと比べると、スキアボーネは、足がよく動いていました。と書くと、「あれ?」と思わるかもしれません。フットワークがよかったのは、Na Liではなの、と。

この二人のフットワークを比較すると、よいフットワークというのは、足がよく動くということではないことが分かります。一言でいうと、「歩数が少ないフットワークの方がよいフットワークだ」ということです。

歩数が多く、微調整をする、いわゆる「細かいフットワーク」というのは、実は、必ずしもよいフットワークではありません。なぜなら、上体は、細かいフットワークが終わるまで待たされるからです。足が細かい調整をしている間、上体は、スイング(テイクバック)をスタートできないばかりか、スタートの準備すらできないことがあるのです。

歩数の少ないフットワークは、ボールをヒットした後に、元のポジション(レディーポジション)に戻るときにも必要です。自分の打ったボールにもよりますが、基本的には元の位置近くに戻ると思いますので、その場合は、打点まで行った足跡を、そのまま踏みながら戻るようなイメージになります。

ボールの位置まで行くときにはこの大きな歩幅のステップを守れていても、戻る場合にはつい忘れがちです。たとえば、相手のボールが浅い場合には、前に移動して打ちますが、戻るときに、つい、細かいステップで戻ってしまったりしていないでしょうか?戻りながら歩幅をそろえ、戻った時には次のボールへのスプリットステップができるようになるのは、しかも無意識できるようになるには、トレーニングが必要です。

なお、歩数の少ないフットワークは、当然ですが歩幅が大きくなります。大きな歩幅で、しかし、その歩数で微調整までせねばならないのです。外から見たら大雑把に見えるそのフットワークは、実は技術的には高度です。そして、メシールは、まさに、この、歩数の少ないテニスプレーヤーの代表と言ってもよいでしょう。このことは、また、別項で書こうと思います。

メシールのテニス(30) メシールのフォアハンド(腰よりも高い球 その3)

メシールのフォアハンド、腰よりも高いボールを、再度、ビデオで分析してみました。分析対象は、1987年の全米オープン、マッツ・ヴィランデルとの試合です。全米オープンは、おそらく4つのグランドスラムの中でも、一番、カメラワークに凝っていて、プレーヤー目線の映像を多用します。上からではなく真後ろから選手のプレー(フォーム)を見ることができるので、参考になります。(カメラマンは、さぞ、大変だと思います。ご苦労様です。)

一つ、面白いことに気が付きました。

メシールは、腰よりも高いボールでは、低いボールと違って、テイクバックでラケットを立てます。低い球と同様のテイクバックでスタートし、そのまま、ラケットが立つところまで上げていきます。(ただし、高い球の場合は、右肘をあまり後ろに引かず、体の真横あたりでテイクバックを取ることもあるようです。)

ラケットが立っても、ラケット面の法線は、面を伏せる側(とはいえ、ほぼ横を向きますが)になります。他のフォアハンドストロークと同様、オープンスタンスで、右足を踏み出してボールをヒットします。ここまでは、ラケットを立てることを除くと、腰よりも低い球を打つ場合に書いたとおりです。

低い球と違うのは、テイクバックのトップにおいて、ラケット面(の中心)が相手のボールの飛球線よりも上に来ることです。つまり、テイクバックで、ラケットはボールよりも上に来るのです。

次に、立ったラケットは面が上を向かないように気を付けながら横に寝ていきます。ラケットが、体の後ろ(横)で、小さなループを描くのです。同時に、フォワードスイングが始まります。フォワードスイングはほぼ水平方向です。そのまま、スイングはインパクトを迎えます。

この打ち方は、メシールが、高い打点ではスピン系よりもフラット系のボールを打つことを意味しています。スピン系を打つ場合は、ラケット面はボールよりも下にセットせねばならないからです。たとえば、フェデラーは、イースタン系のフォアハンドグリップですが、高い打点のフォアハンドでは、ボールよりも下にテイクバックをします。そこから、ラケットを斜め上方向に振り出すことで、ボールにドライブをかけるのです。メシールの場合は、小さくループしたラケット面をそのまま前方(スイングでいうと横)に運ぶように打っています。きれいなフラットのボールが押し出されていきます。(まれに、一度上げたラケットを下げてから腕全体でボールに順回転をかけることがあります。)

このフォアハンドの打ち方は、ボールにスピンをかけにくく、ボールがバックアウト(またはネット)してしまいそうな感じがするので、アマチュア(中級)の自分でもできるだろうかと心配になり、オンコートで試してみました。試した相手はヘビースピンではなく、比較的フラット系のボールを打つ相手です。フラット系のボールが大きくバウンドするときに、この打ち方を試みたのです。

その結果ですが、ボールを打つ感触がとても面白かったのです。一旦、ラケット面をボールよりも上に持ってくることで、ボールを打つ際に、ボールを包み込むような感じがします。そして、ネットよりも高いところで打つボールをラケットを押し出すことで、ネットの上にボールを押し出すようなイメージになります。したがって、ネットやバックアウトの心配は、想像していたほどは感じませんでした。

この打ち方には、しかし、右足のプレースメントが非常に微妙です。低い球と違い、ラケットを横に振りますので、ラケット面の微妙なずれによって、ネットしたりバックアウトしたりしてしまいます。高い精度でのラケットワークが必要になるため、最後に踏み込む右足の場所を間違えた途端に、結果が見えてしまいます。相手の打つ高い球の回転(スピン)、高さ、スピードに合わせ、確実な場所に右足を置かねばなりません。右足で踏み込むタイミングも重要です。

試合の中で、どれほど早く相手のボールに合わせて右足のタイミングをつかむことができるかが、腰よりも高い球を打つ場合のメシールのテニスでは重要なのです。

2011全仏オープン男子シングルス決勝 フェデラー対ナダル テレビ観戦(その2)

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2011全仏オープン男子シングルス決勝 フェデラー対ナダル テレビ観戦と分析

全仏オープン2011男子決勝のフェデラー対ナダルですが、セットカウント3-1で、ナダルが6度目の優勝を果たしました。試合前もナダルが圧倒的に有利と予想されていましたので、予想通りの結果ということになるでしょうか。

しかし、フェデラーに全くチャンスがなかったとは思えないのです。フェデラーは、第1セットで、試合前には不利だと言われていたにもかかわらず下馬評を覆したジョコビッチ戦と同様、素晴らしい立ち上がりを見せました。しかし、第1セットの後半でその流れが、ぷつんと切れます。

私には、それが、ナダルの調子がよくなったのではなく、フェデラーの戦略ミスに思えてなりません。リードしていたフェデラーが、なぜ戦略をかえたのか、私にはどうしても理解できないのです。

以下では、WOWOWで試合を見ながらリアルタイムに書いた3本の記事を、読みやすいように一つにまとめてみました。そして、最後に、試合後の分析をまとめて、追加しました。いつか、誰かがこの疑問を解決してくれるかもしれないと期待して…。


2011年6月5日 23:04JST 第1セット5-3フェデラー

今日も、リアルタイムで書いています。今日はブログを書くつもりはなかったのですが、つい書きたくなってしまいました。

フェデラーは、準決勝のジョコビッチ戦同様に、バックハンドでつなぎのスライスを使わない戦略を取っています。そして、第1セット、これが功を奏して、5-3でリードしています。

しかし、5-3の2ポイント目で、これまで自分の左側に飛んできたボールをバックハンドで打っていたフェデラーが、突然、大きく回り込んでのフォアハンドを打ったのです。これはまずいと思いました。

フェデラーがナダルに勝つのであれば、大きく回り込んでのフォアハンドを捨てなくてはなりません。回り込んだフォアでポイントが取れればよいですが、取れないのであれば、自分のフォアサイドを大きく開けるということは、2本先に、ナダルの強烈なフォアハンドをバックハンド側に打ち込まれることを覚悟せねばならないからです。

案の定、フェデラーは自分のサーブを落とし、5-4になりました。もし、フェデラーがこの点を修正できないようだと、フェデラーはずるずると、負けていってしまうでしょう。

2011年6月5日 23:13JST 第1セット5-5

フェデラーは、5-5のデュースからこのゲームを落としました。やはり、フェデラーの歯車が、少しずつ狂い始めているように見えます。想像ですが、試合前のゲームプランでは、できるだけフォアハンドに回り込まずバック側のボールをバックハンドで打つ(しかも、スライスではなくドライブで)という計画を立てていたと思います。この戦略が、ジョコビッチ戦では功を奏しました。

しかし、さすがのフェデラーも、つい、打ちやすい方に回ってしまったのかもしれません。おそらく、第1セットは、もうナダルのものでしょう。第2セット以降、フェデラーは、狂い始めた歯車を戻せるでしょうか。その狂いは、まだ大きくありません。今なら、修正はできるはずです。

5-6の15-15から、フェデラーが、小さく回り込んでのフォアハンドで、今度はウイナーを取りました。しかし、それでも、私には、この回り込みが敗退への序章に見えるのです。


2011年6月6日 00:18JST 第1セット5-6(Duece)フェデラー

決勝戦ですが、5-3でのフェデラーの回り込んだフォアハンドの結果、フェデラーのプレーはがたがたと崩れていきました。予想通り、第2セットの6-5(ナダルリード)まで、一気に来てしまいました。

フェデラーがセンターに立って、フォア側をフォアで、バック側をバックで打つ限り、展開が早くなり、ナダルもその展開についていかざるを得ません。ナダルは、その結果、試合の序盤でベースライン近くにポジションを取らざるを得ませんでした。

それが、フェデラーがバック側のボールを大きく回り込むために、オープンコートができ、ナダルはそこに打つ余裕が出てきました。その結果、ナダルのポジションは、ベースラインから少し下がってきました。試合序盤でエースが取れていたフェデラー得意のフォアの逆クロスも、何度もナダルに拾われます。このパターンでフェデラーがポイントをなかなか取れなくなってしまいました。

今、第2セットの6-5でデュースになったところで、雨で中断に入りました。これが、おそらく、フェデラーの最後のチャンスでしょう。フェデラーが、試合再開した時に、試合開始と同じ気持ちで、同じ戦略に戻すことができるなら、もしかしたら、フェデラーにわずかなチャンスがあるかもしれません。

試合パターンが変わらない限り、この試合は、平凡な、または盛り上がりに欠ける決勝戦になってしまうと思います。


2011年6月7日 (試合後の分析)

心配した通り、フェデラーは第3セットを取ったものの、第4セットは1ゲームしか取れず、敗退しました。試合後に考えても、やはり、第1セットの5-3フェデラーのゲームが、勝敗の分かれ目だったように思います。どうしてなのか…それが知りたく、ビデオを見て、第1セットを私なりに分析してみました。

第1セットで、フェデラーは、5-3でリードするまで、大きく回り込んでのフォアハンドをほとんど打っていません。ビデオで調べてみたところ、フェデラーが左側のサイドラインよりも外から回り込んでフォアハンドを打った回数は、たった1回です(第5ゲーム(フェデラーの3-1)の0-15)。それ以外のバック側に来たボールは、体のそばに来たボールを除いては、すべてバックハンドで打ち返していました。

しかし、第1セット、フェデラーにとってのマッチゲームである第9ゲーム(フェデラー5-3)において、フェデラーは、なぜか、突然、大きく回り込んでのフォアハンドストロークを打ち始めます。フェデラーが、この1ゲームの間で左側サイドラインよりも外まで回り込んでフォアハンドを打った回数は、次の通りです。

1ポイント目(0-0) 0回
2ポイント目(15-0) 1回
3ポイント目(15-15) 1回
4ポイント目(30-15) 1回
5ポイント目(30-30) 0回
6ポイント目(30-40) 1回

それまで、8ゲームで1度しか打っていないショットを、このゲームだけで4回も打ったのです。そして、4回のうち3回、ポイントを落としているのです。(大きく回り込んで打ったフォアハンドショットでポイントを落としているわけではありませんが。)つまり、この戦略はうまく機能しなかったということです。

この後、第1セットでは、フェデラーは、コート外に大きく回り込んでのフォアハンドを一本も打ちませんでした。しかし、3ゲームを連続で失い、第1セットを落としてしまいます。第9ゲームを境にして、試合のペースが一気にナダルに傾いたのです。

第2セット以降は数字は調べていませんが、フェデラーは、その後も、何度も大きく回り込んでのフォアハンドを打ち続けました。しかし、そのショットは、ほとんど有効には働きませんでした。

私は、フェデラーの敗因は、この戦略ミスだと分析しました。

この試合の、唯一のターニングポイントである、第1セット5-3からの第9ゲーム。ここで、なぜ、フェデラーは、戦略を変えてしまったのでしょうか。しかも、それまで有効に働いていた戦略を変えてまで。

果たして、この分析が正しいのかどうか、私にもわかりません。偶然に、第9ゲームでは大きく回り込みやすいボールが多かっただけなのかもしれません。

しかし、試合を見ていて、この第9ゲームでのフェデラーの大きな回り込み方に違和感を感じたのは事実です。サイドラインを越えて回り込むと、コートががら空きになります。第9ゲームで、フェデラーのコートから主(あるじ)がいなくなる瞬間を4度も見せられたのですから、そのぐらい、違和感がある第9ゲームでした。

フェデラーは、この一戦の経験から、ウインブルドン2011でどのように仕上げてくるでしょうか。私は、まだまだフェデラーのテニスが見たい。Winning Uglyという欄で書いたように、フェデラーの武器であるテニスの美しさで、戦い続けてもらいたいのです。

2011年6月4日土曜日

李娜(Na Li)の全仏オープン2011決勝

今、全仏オープン2011女子決勝の試合を見ています。実は、この文章は、リアルタイムで、つまりWOWOWで試合を見ながら書いています。

WOWOWには、試合前に、急いで加入しました。李娜(Na Li)という、中国人(アジア人)が初めてグランドスラムで優勝するかもしれない決勝戦を見たかったからです。インドなど、伝統的にテニスの強い国がアジアにはありますが、グランドスラムでの優勝は、今までありませんでした。

Na Liが、グランドスラム決勝という場で、どんな戦いを見せてくれるのか。実は、Na Liの試合を見るのは初めてなのです。

第1セットでは、Na Liのクラシカルなテニススタイルが、スキアボーネの眩惑的で多彩なテニスを凌駕しました。Na Liは、惑わされず、しっかりと、正攻法で戦っています。そして、第1セットは、サービスブレークをされる心配がほとんどないまま、セットを取りました。

第2セットも4-2とリードしたNa Liは、しかし、ここから、プレッシャーと戦い始めます。Na Liは、第2セット4-2から、スキアボーネのサービスでブレークチャンスをモノにできず、自分のミスでこのゲームを落とします。そして、その後もフォアハンドのミスを重ね、スキアボーネにじりじりと追いつかれていきます。

解説の神尾米さんが、これがグランドスラム優勝のプレッシャーだと説明しています。もちろん、グランドスラム初優勝のプレッシャーは計り知れないものでしょう。しかし、私の目には、それだけではないように映ります。もっと大きなものがNa Liを苦しめている。Na Liはネットの向こうのスキアボーネではなく、もっと別の、何か大きなものと戦っているように、私には見えたのです。

この試合は、アジア人がグランドスラム決勝で戦い、初のグランドスラマーになるかが話題の焦点でした。でも、果たして、それだけなのでしょうか。

この決勝戦の意味は、もっと大きいように思います。アジア人が、欧米が100年以上も中心であったたテニスというスポーツの、しかもその中心となるグラウンドスラム大会の決勝で、観客を含めた歴史と伝統という重みと戦い、その重圧を乗り越えることができるかどうかを試される一戦なのです。

第2セット後半に入り、スキアボーネがNa Liに追いつき始めてからは、大半の観客がスキアボーネの応援です。第2セット後半に入り、スキアポーネがポイントを取るたびに、大歓声が起こります。

パリっ子は、その歴史的背景から伝統的に判官びいきで、優勝経験のないNa Liへの応援が、前年度の優勝者であるスキアボーネをこえていると、試合前にレポートされていました。それが、手のひらを返したように、スタジアム全体でヨーロッパ人であるスキアボーネを後押ししている。残酷なヨーロッパの歴史が、観客すべてとスキアボーネを飲み込んで、Na Liに襲い掛かります。

第2セット後半に入り、ミスを繰り返すNa Liの苦悩の表情は、思い通りのプレーができないことに対する怒りだけなのでしょうか?長い歴史を通じて、アジア人がヨーロッパ勢と孤独に戦ういらだち。

多くのプロスポーツは、別の側面から見ると、貧しい人たちが一獲千金を夢見て、這い上がる、のし上がる手段の一つです。ボクシングや野球で黒人選手が多いのは、偶然ではありません。裕福になりたいという野心が力になるメジャースポーツの中で、しかし、テニスは少し違います。かつてより貴族のものであったテニスというスポーツ。その伝統は、脈々と世界のテニスシーンの背景に流れています。全仏オープンの観客は、貧しさから這い上がるサクセスストーリーを求めて、ローランギャロスに集まるわけではない。特権階級のブルジョアな悦楽の香りが、ローランギャロスには漂っています。ボクシングの世界チャンピオン戦のリングとは異なる空気が、グランドスラムのセンターコートを支配しています。

テニスは、もういいや、負けてもいいやと思ったら、こんなに楽なスポーツはありません。偶然に勝つということがないスポーツです。負けようと思って、たまたま勝ってしまったということがないスポーツです。Na Liが、観客という形で具現化された欧州の歴史の重みの中で、精神的に追い込まれ、瞬間的にそんな表情を見せるのが心配です。

Na Liには、優勝してほしい。でもそれは、自分がアジア人だから、アジア人に初めてグランドスラムで優勝してほしいということではないのです。

成長期に入ったアジアは、悲しい歴史を少しずつ乗り越え、企業の力や団体の力で、世界の中で成功した事例を持ちはじめてきました。しかし、テニスは、団体で戦う競技ではない。どれほど、中国が組織的に選手を育成したとしても、団体競技ではないのです。

テニスは、どんなに精神的に追い詰められても、コートの上でただ一人、数時間戦い抜く者が勝利を勝ち取る競技です。その間、コーチとも、友人とも、家族とも苦しみを分かち合えない、孤独で過酷なスポーツです。

今、Na Liは、スキアボーネではなく、欧米の伝統と、それに押しつぶされそうになる自分自身と戦っている。Na Liが、ヨーロッパのスタジアムというアウェーだけではなく、テニス競技そのものとその背景にあるヨーロッパの歴史に対するアウェーを感じているとしても、それは少しも大げさなことではないのです。

個人競技であるテニスにおいて、あらゆる伝統の重さを跳ね返し、欧米の文化の中心で異文化人であるアジア人が光を放つ瞬間が、今、目の前に来ようとしている。しかも、パリという、ヨーロッパの文化と歴史の象徴の街で。

私は、その瞬間を見たい。Na Liには勝ってほしい。

この気持ちを持つことができるのは、私がアジア人だからです。その歴史を肌で知っているからです。Na Liの感じる重圧を理解し、分かち合いながら応援をすることの意味が、そこにはある。そんな時間を持つことを、私は幸せに感じます。

今、コート上は、第2セット5-5です。Na Liは、明らかにグランドストロークで、ラケットを大きく振りきることができなくなっています。フラット系のグランドストロークでは、ラケットを振りきれなくなることは、何よりも怖いことです。ボールを制御することができなくなるからです。

どんな形でも良い。第1セットのような、ストロークでクロス、逆クロスにエースを取るようなきれいな形でなくてもよい。格好良くない勝ち方であっても、Na Liに勝ってほしい。背中にのしかかる巨大な伝統の重さを乗り越えることが、Na Liが、応援するすべてのアジア人が、なによりも望んでいることなのです。

第2セットの4-2からずっと腕が縮こまってしまってバックアウトとネットを繰り返していたNa Liが、5-6の0-15から、やや長いストローク戦で、グランドストロークのエースでポイントを取りました。何ゲームかぶりに、腕がしっかり伸びたフォアハンドストロークでした。そして、この瞬間に、Na Liの表情が、少し穏やかになったように見えました。もしかしたら、彼女自身がテニスという欧米の伝統の重圧から抜け出し、アジア人としてではなく一人の選手として、戦い始めた瞬間だったのかもしれません。

Na Liは、5-6から自分のサーブをキープしました。彼女の表情は、自分自身を含めたあらゆるものに対して怒りを感じながら、しかし、あらゆる怒りを受け入れた、不安のない表情になりました。Na Liが、テニスという伝統の中に飲み込まれ、テニス史上の一人のプレーヤーとしてプレーし始めています。今、Na Liは、アジア人ではありません。長い全仏オープンの歴史の中で、一番最後に並ぶ優勝に最も近いプレーヤーです。

今から第2セットのタイブレークです。Na Liの表情は、背負う多くのものから開放され、今はとても穏やかです。大丈夫です。Na Liは、このタイブレークを取ることができます。優勝できると思います。

メシールのテニス(29) サーブ(その3)

一つのプレー要素(例えば、サービス)において、いろいろな技術が語られる時、それらが矛盾していたり、整合していないと、どうしたらよいのか、混乱します。しかし、様々に解説される要素技術がすべて整合していると、スムーズに受け入れやすく、また、実践しやすい(身に着けやすい)ものです。

メシールのスピン系のサーブは、その典型でしょう。スピンサーブの要素技術が、すべて、そのまま具現化されています。

スピンサーブの技術は、一般に、次の様に解説されます。①スイングの際に右肘を前に出さない、②スイングの際にラケットグリップエンドを前に突き出さない、③右肘を曲げる、④スイングの方向とボールを打ち出す方向は異なる(例えば、30°程度)、などです。

メシールのテニス(22)において、メシールのサーブを、背中から見た図で図解しました。今回は、上から図解をしてみます。上の①~④が、すべて、そこで実現しています

ここで、ポイントは、ボールの方向とスイング方向がずれているということです。スピンボールでは、ボール方向とスイング方向がずれるということを言われていますが、ラケットを(せか課から見た図に示すように)傾けることと、スイングが右前方方向であることは、コンシステント(整合)しています。また、右ひじを曲げることも、肘やラケットのグリップエンド方向がスイングに対して垂直になることも一致します。

これらは、すべて一致しており、頭の上でラケットを寝かせてボールを打つ(手首とインパクト位置がずれている)ことは、むしろ、スピン系ボールを打つためには、望ましいことなのです。

図にあるように、ラケットと手の間に角度をつける癖がないプレーや(つまり私)にとって、手とインパクトポイントが上下になっていないことには、違和感があります。力が入りにくいからです。ついつい、力が入りやすい腕とラケットをまっすぐにしてボールをインパクトしたくなります。
しかし、図にあるように、ラケットスイングする方向がラケットの中心軸線と垂直にになり、ボールを押し出す方向とは異なる方向にするのであれば、比較的簡単に修正ができます。

もう一つ、大切がことがあります。表現が難しいのですが、「右ひじの曲げ方」です。これはフォアハンドストロークにも共通するのですが、”右ひじを曲げる角度を、レディーポジションからテイクバックにおいて、あまりかえない(できるだけ一定にする)”ということが、安定したサーブを打つ際に重要です。実は、この原則を、メシールは守っていません。正確には、テイクバックでは、最後にトロフィー
ポーズを作る直前までは、あまり肘を曲げていない状態を維持しています。私は、メシールのテニス(22) サーブ(その2)でいうところの②のタイプ(メシールは①のタイプ)なので、その違いかもしれません。

2011全仏オープン男子シングルス準決勝 フェデラー対ジョコビッチ テレビ観戦

メシールのテニスにしか興味がない私は、最近のテニスはあまり見ないのですが、たまたま、フェデラー対ジョコビッチの試合を見ました。2011年になって、ジョコビッチはまだ一度も負けておらず、開幕以来の連勝が41になっていました。勝てば、ジョン・マッケンローの持つ最多記録の42に並び、さらに初めての1位になるという、快進撃だったのです。

ジョコビッチは、クレー大会の決勝で2連続でナダルに勝利し、世界で最も調子が良いプレーヤーといってよいでしょう。一方で、フェデラーは、春のクレーコートシーズンの大会で決勝にすら進むことができていませんでした。この試合に限って言えば、挑戦者はフェデラーの方だったと言ってよいでしょう。

試合結果は、フェデラーが3-1で勝利。挑戦者フェデラーの戦い方はすばらしかったです。

テニスに限らず、相手のある競技は、自分のプレースタイルに徹するのか、相手に合わせて自分のプレースタイルを変えていくのか、2つの戦略があります。この試合のフェデラーは、明らかに、後者の戦略を選択しました。王者として君臨していたフェデラーですが、普段のプレースタイルではジョコビッチには勝てないと判断したのでしょう。

相手によって戦い方を変えることができるのがフェデラーの強さと言ってよいと思います。これが、ボールプレースメントを重視する(薄いグリップ系の)選手の有利な点です。

この試合で、フェデラーがとった戦略は、”つなぎのボールできるだけ打たない”です。ジョコビッチの厳しいストロークに対して、フェデラーは”ボールをつなぐ”ことをあきらめました。たとえミスをしてでも、ほとんどのショットをベースラインいっぱいに深く打つ戦略です。

ジョコビッチは、普段であれば、自分が放つ厳しいボールに対して相手が打ったつなぎの球を厳しく打ちこんでポイントを取るのを一つのパターンとしています。いえ、近年のテニスは、多くのプレーヤーがこのパターンでポイントを取っており、より厳しいボールを打つ方が勝つという単純さがあります。(その単純さが、最近のテニスが私には面白くない理由の一つです。)

しかし、この試合のフェデラーは違いました。フェデラーに対しては、打っても打っても厳しいボールが返球されるので、思ったようにポイントを取りいけません。むしろ、自分が厳しいボールを打ったので、次のボールでポイントを取りに行くのですが、想定していない厳しい球が返ってきて、イメージの中ではポイントを取りに行くものですから、ベースラインアウトしてしまう、ということを繰り返していました。数えていませんが、ジョコビッチのベースラインストロークでのバックアウトは、相当数あったと思います。

あと50cm下がって打てばよいのに、ジョコビッチは、最後まで、そのことに気が付きませんでした。(または、わかっていても、無意識に打ちに行ってしまったのかもしれません。)普段から、自分の打つボールが厳しい時には、次に甘い球が来る、という癖が体しみこんでしまっており、つい前に踏み出して打ってしまっていたのでしょう。

最終セット(第4セット)の終盤に、ジョコビッチがベースラインより少し下がって打ち出したときには、もしかしたら、ジョコビッチが逆転するかもと思いました。おそらく、フルセットにもつれ込んだら、ジョコビッチは勝っていたと思います。しかし、第4セットのタイブレークの1本目のポイントでフェデラーがドロップショットを決めたときに、さすがフェデラーはすごいと思いました。これで、ジョコビッチは、また、ベースラインから下がりにくくなるからです。

フェデラーは、ジョコビッチと同様に、この試合では、大量のバックアウトをグランドストロークでしました。しかし、アウトしてしまったジョコビッチと違い、ある程度のバックアウトを覚悟で戦略的に厳しいボールを打ち込み続けたェデラーのバックアウトは、意味が違うものでした。

もし、フェデラーの厳しいボールがバックアウトする確率があと5%増えていたら、この試合の結果は逆だったでしょう。4セットの試合の間、フェデラーはすべてのショットで厳しい配球をすることに、全神経をそぎ続けていました。そこに、勝機を見出し、その戦略を徹底したフェデラーに、プロのプレーを見たような気がしました。

一方のジョコビッチは、今回の敗戦を分析することで、ますます強くなるに違いありません。

決勝では、ナダルは、サウスポーの利点を活かし、いつも通りに執拗にフェデラーのバックハンドに強烈なフォアハンドを叩き込んでくるでしょう。それは、おそらく、ジョコビッチのバックハンドよりも強烈なはずです。

フェデラーが、それをどう受けるのか。ジョコビッチ戦と同様に、リスクを承知でドライブで打ち返すのか、それとも、バックハンドスライスでナダルのバック側に配給するのか(しかし、ナダルは、回り込んでのフォアハンドで応戦するでしょう)、またはそれ以外の作戦があるのか。

フェデラーの決勝戦も、楽しみです。

2011年6月2日木曜日

メシールのテニス(28) チャンスボール・遅い球の打ち方

メシールのテニス(26)で、メシールのフォアハンドでは、チャンスボールは必ずしも打ちやすいボールではないと書きました。

チャンスボールというのは、打ちやすいのでチャンスなのではなく、きちんとボールをヒットすると、ポイントをとれる確率が高いからチャンスと呼ばれているのでしょう。

チャンスボールが難しい一つの理由は、メシールのテニス(26)で書いたとおり、スイングの軌道とボールの軌道が異なるからです。ラケット面の微妙な角度でボールのコントロールが変わる薄いグリップのメシールのテニスでは、スイング軌道とボール軌道が一致している場合が、最も打ちやすいボールです。ボールのスピードは、重要ではないことが多いのです。

さて、では、この遅いボール、チャンスボールをどう打てばよいでしょうか。

答えは簡単です。「大きなテイクバックと大きなスイング」です。

なぜ、大きなテイクバックが有効なのでしょうか?

チャンスボールでは、強くないボールを、確実な方向に強く打たねばなりません。確実な方向に打つということは、面がぶれないということです。強く打つということは、小さいスイングではだめです。

この2つを両立するためには、大きな、ゆっくりとしたスイングがベストです。実際に、オンコートでボールを打つとわかりますが、ボールがアウトすることもなく、きちんとボールを打ちたい場所に打ちたい力で、打つことができます。

背筋力が使いやすいということも、ゆっくりと大きなスイングでは有利です。

もともと、メシールのフォアハンドでは、テイクバックでラケット面が上を向かない(伏せる)こと、テイクバックトップで、ラケット面が体の線(6時方向)よりも外に出る(5時の側)ことなどの、制約があります。
テイクバックに制約が多いので、大きくテイクバックをしても、大きくなりすぎる心配がありません。しっかりと、大きなテイクバックと大きなスイングでチャンスボールを決めてください。

なお、メシールのような薄い(イースタンまたはコンチネンタル)グリップでは、フォアハンドでチャンスボールを打つ際には、右脇が開きがちです。特に、大きなゆっくりとしたフォームの場合にそうなります。

そうならないためには、右脇を締めなくてはなりませんが、やりすぎると、今度は窮屈なフォームになってしまいます。

その場合には、脇が締まっていて、しかも窮屈ではない打ち方が求められます。これについては、メシールのテニス(34) 脇が開かないフォアハンドストロークを参考にしてみてください。

2011年6月1日水曜日

メシールのテニス(27) ラケット面はいつからいつまでボールに垂直になるか?

スピンボールを打つ瞬間でさえ、ラケット面はボール垂直に当たります。正確には、ボールの飛び出す方向と垂直に当たります。イメージの中では、スピンの回転量が大きいほど、ラケット面がボールの飛び出す方向(以下、ボール進行方向と書きます)に対して伏せていると思っていますが、それは、インパクトの前後の話です。インパクトの瞬間は、ラケット面は垂直です。

これは、スピンボールの話です。



メシールのようなフラット(フラットドライブ系)の場合は、堂々と(笑)、ラケット面をボール進行方向に押し出すことができます。フラット系なのですから、このことは、誰も疑わないでしょう。

今回のポイントは、では、メシールのストローク(とくに、フォアハンドストローク)は、どこからラケット面がボール進行方向に対して垂直になっているか、です。

どうも、この点において、フラット系のグランドストロークの誤ったイメージがあるように思います。

フラット系が厚い当たりでボールを押し出すのは、あくまで、インパクトの直前から(インパクトを挟んで)直後まで、ラケット面がボール進行方向に垂直になっているからです。その幅は、実は、驚くほど短いはずです。

しかし、”フラット系は当たりが厚い”という言葉のイメージに引きずられて、フラット系でのボールの打ち方において、スイング全体でラケット面がボール進行方向に垂直になると、勘違いしがちです。これは、明らかに誤りです。

メシールのようなフラット(フラットドライブ)でも、ラケット面は、フォワードスイング(の上記のインパクトを挟んだ短い時間を除いて)では、面は伏せられています。地面方向を向いています。ただし、スイングそのものがボール進行方向を向いているだけです。

スイング軌道がボール進行方向を向いているということと、ラケット面がボール進行方向を向いているということは、異なるのです。

スピン系のストロークでは、ラケット面はもちろん、ラケット軌道もボール進行方向と異なります。したがって、スイングの中で、インパクトポイントは点になります。フラットドライブ系は、その点では有利です。スイング軌道とボール進行方向が一致するため、インパクトポイントが線になるからです。

しかし、ラケット面からみると、実は、フラット(フラットドライブ)でも、インパクトポイントは点なのです。図を見れ分かりますが、ラケット面がボール進行方向に垂直になるのは点だからです。(それでも、スピン系よりは、幾分は有利でしょうが。)

このことを間違えてイメージすると、逆に、図の誤ったイメージを作ってしまいます。それは、実は、フラットドライブ系のストロークを不安定にしている、一番の要因なのです。コナーズのフォアハンドは、この誤りイメージによるものだと思っています。その結果、コナーズのフォアハンドが不安定だったことは、ご承知の通りです。

私事で恐縮ですが、私は、この誤ったイメージにずいぶん長い間、引きずられてしまいました。テイクバックで、ラケット面をスイング方向に(無意識に)垂直にしていたのです。この癖を修正するには、かなりの時間がかかりました。(というよりも、そのことを理解することに、長い時間がかかりました。)今でも、その癖に苦しめられています。

大切なことは、テイクバックにおいて、以下にインパクトで面を垂直にできるように面を伏せることができるかということです。低い球は、有利です。フォワードスイングの軌道のまま、テイクバックをすればよいからです。難しいのは、腰よりも高い球なのです。

インパクトでラケット面をボール進行方向に垂直にするのが難しければ、頭の中では、ラケット面を少し伏せたイメージでもよいと思います。(実際には、垂直に当たるはずです。)図の黄色線(=ボール進行方向)は、ボールが飛んできた方向でもあります。したがって、面を伏せて、ボールの飛んで来た方向と同じ軌道でスイングをする(ボールを打ち返す)。メシールのフラットドライブは、なんとシンプルなのでしょう!そのイメージだとネットしてしまいそうなのであれば、その分、ボールを押し出せばよいのです。ラケット面を伏せているのですから、図の誤ったイメージになることはありません。ボールを押し出しすぎて、ベースラインをアウトしてしまうこともないのです。