2011年6月17日金曜日

書評:「二つのファイナルマッチ 伊達公子・神尾米最後の一年」(前) ウインブルドン2011を前に

佐藤純朗氏の「二つのファイナルマッチ 伊達公子・神尾米最後の一年」というノンフィクションを読みました。奥付には、出版が1998年とあるので、もう、13年も前に書かれたことになります。1996年の伊達と神尾の全豪から全米までの世界ツアーが物語の主な舞台になっています。この年の終わりに、伊達が、そして神尾が引退をするまでの約1年間の物語です。

そして、今年(2011年)も、もうすぐ、ウインブルドン(全英オープン)テニスが始まります。

このノンフィクションの二人の主人公である伊達、神尾も、それぞれの姿でまた、今年のウインブルドンに登場します。神尾はWOWOWの解説者として、伊達は(驚くことに)選手として。

神尾の解説の担当はWOWOWの第一週ということなので、神尾が伊達の試合を解説する可能性は高いでしょう。15年の時を経て、このノンフィクションで描かれた二人のウインブルドンが別の形で再現し、選手と解説者として交わることが、何か、面白いような、一方で残酷なような、不思議な気持ちになります。

この書籍の中では、二人ともが主人公ではありますが、やはり、伊達が主役という印象は否めません。1996年は伊達がフェデレーションカップでグラフを破った年であり、逆に神尾は前年度の好調から一転して肩のけがで苦しんだ1年ですので、それは仕方のないことでしょう。

この二人の対比が、著者の意図と関係なく、残酷なスポーツの一面をさらしています。勝つものは脚光を浴び、そうでないものは主役になれないプロスポーツの現実。このノンフィクションは、神尾にはあまりおもしろくないものでしょう。しかし、忘れてはいけないのは、その神尾自身が、おそらく、自分も無数の選手に引導を渡し、彼女らを脇役に、舞台そでにと押し出してきたのです。この、単純にして明快、そして容赦のないたった一つの法則。それがプロスポーツというものです。

さて、読了後の第一印象ですが、このノンフィクションは、残念ながら、私には、あまり大きな感動を与えてくれることはありませんでした。読んだ後に、伊達の、そして神尾の、引退の決意までの心の道のりが私に伝わることはありませんでした。

佐藤は、4大トーナメントに参加する伊達と神尾を、丁寧に追いかけます。それを通じて、大きな田舎の全豪オープン、ファッショナブルで個人主義の全仏オープン、伝統と格式が全体を支配する全英オープン、喧騒と商業主義に包まれる全米オープン。この全く異なる4つの会場の雰囲気を、生き生きと、その場の空気の暑さと冷たさの両方を感じさせてくれました。

しかし、伊達の苦しみと、神尾の苦悩、二人の選手が引退に至るまでの内なる姿を掘り起こすまでには至らなかったようです。著者の佐藤は、おそらく、心優しく、選手への思いやりを何よりも大切にする人なのでしょう。読み進むにしたがって、伊達や神尾の心の中よりも、むしろ佐藤自身の人柄の良さが、文章を通じて、読者に伝わってきたのが、むしろ皮肉ではあります。

佐藤は、取材を通じて、常にプレーヤーに敬意を払います。多くの取材者が、マスコミが、選手をまるでタレントのように扱い、尊重も尊敬もしないことに、憤りを感じています。無理なインタビューを選手にぶつけることは決してなく、伊達に至っては、最後までインタビューで緊張していたようです。選手にぶしつけな質問をすることで、その選手の本質をむき出しににするなどということは、佐藤には許されることではなかったのでしょう。

その代わり、いやだからこそ、佐藤は、海外での帯同を通じて、少しずつ選手に近づき、選手のチームと食事をしたり、買い物をしたりという距離にまで入っていくことができたのです。そこでの様子は、プライベートということで詳しいことは書かれていませんが、その場の和やかな雰囲気は、十分に伝わってきました。(ただ、伊達については、最後に超えることができない壁を知らされることになるのですが…。)

そんな佐藤の優しい性格が、二人のプレーヤー(特に、伊達公子)の心の底を覗き込むまでのインタビューには至らなかったのだと思います。

その点では、私は、やはり、この作品に対して、満足できたとは言えないのです。特に私が残念だったのは、インタビューが、選手を理解するすべてではないということです。言葉を交わさなくても、試合に臨む姿、試合に負けた後の様子、そして何よりも選手とほとんど目線で試合を観戦することで、佐藤は世界を転戦する二人の日本人プレーヤーの心の中を、救い上げる可能性があったような気がするのです。

村上龍は、言いました。「プロプレーヤーの人格は、そのプレーを超えることができない。」

私は、佐藤は、もっと、伊達や神尾の本質に迫ることができたのではないのかと、そんな風に思うのです。いや、場合によっては、本人たちよりも本人を理解することすらできたのではないかと…。

(続く)

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