2013年7月5日金曜日

Wimbledon 2013 どうしても何か書きたくなるプレーヤー・ラドバンスカ

ラドバンスカとリシツキのゲーム(2013年ウィンブルドン女子準決勝)を見ていて、ラドバンスカという選手がだんだん怖くなってきた。ラドバンスカの目には、ネットの向こうの相手は、コートは、風景は、どんな風に目に入るのだろうか。

負けるのが怖いとか、勝ちたいとか、ラドバンスカはそんな気持ちは全くなさそうだ。彼女は、名声や名誉のためにゲームをするのではない。勝ちたいという気持でもない。ただゲームに勝つためにプレーをしている。

勝ちたいと思ってプレーするのと、勝つためにプレーをするのは、言葉は似ているが実は全く違う。前者は結果に重きを置く。後者は過程に重きを置く。

ラドバンスカにとって、勝利は過程の先にある結果でしかない。言い換えると、結果までの過程についてしか、彼女の頭にはない。

彼女のプレーは、単純だ。ポイントを取るためにできることを何でもする。フォームなどはどうでもよい。ポイントを取るために、コースを隠し、ボールのスピードを変え、球質を変え、ペースを変える。相手の予想外のところにボールを打ち、逆に相手の思う場所にボールを打ってエラーを誘う。大切なことは、ポイントを取ることだ。そのスタンスは明確だ。

いったい、どのような少女時代を過ごせば、こんな女性に、こんなプレーヤーになるのだろうか。こんな人格になるのだろうか。何度も書くが、人格はテニススタイルを超えることはできない。ラドバンスカのプレーは、彼女の人格以外のなにものでもない。人格がこのようなプレースタイルを作ったのか。テニスが彼女の人格を形成したのか。

表情をあまり変えない選手は大勢いる。こみ上げる感情を表に出さずにコートに立つプレーヤーは多い。しかし、人格がそのままテニスに現れて、その人格には感情がほとんどない選手は数少ない。

少なくとも、他のどの選手よりも、テニスと人格が一致しているのが、ラドバンスカだと思う。彼女からテニスをとったら、彼女は死んでしまうのだろう。こういう形での人格の表現は、私は嫌いではない。ただし、こんなプレーヤーとテニスの試合をするのは、勘弁してほしいが…。へとへとに疲れてしまうのは間違いない。

ラドバンスカは、リシツキに敗北した後、握手の際に相手の目を見なかった。そのまま彼女は、目に入るすべての風景を「見る」事をせず、相手も、審判も、おそらくは陣営さえも見ずに、その足で足早にスタジアムを去って行った。

⇒ Wimbledon 2013 李娜vsラドバンスカ(ある意味こんなに女性的なプレーヤーはいないのかもしれない)

0 件のコメント:

コメントを投稿