80年代後半、チェコスロバキアは、スゥエーデンやアメリカと並んで、テニス界を席巻しました。多くの名選手が、この国から生まれました。レンドルとナブラチロアの二人は有名ですので誰でも知っていると思いますが、スコバやマンドリコバ、ノボトナ等の女子選手、男子選手にもノバチェクやスミッドなどがいました。メシールも、時代の中できらめいたチェコスロバキアテニスを支えた一人だったのです。
これらの選手の多くは、チェコ出身なのですが、メシールはその中では珍しく、スロバキアの出身です。(両親のどちらかがチェコ出身で、もう一人がスロバキア出身だったと思います。)1994年から今まで、メシールは、ずっとスロバキアのデビスカップの監督です。
スロバキアの首都は、あまり知られていませんが、ブラチスラバという街です。ウィーンやブタペストと同じく、ドナウ川に面した街です。おそらく、今、メシールは、このブラチスラバに住んでいると思います。だから、ブラチスラバは、私にとっては、一度、訪れてみたかった、あこがれの街なのです。
そのブラチスラバですが、ウィーンから50kmしか離れていない国境付近の街です。(つまり、ウィーンも、国境付近の街です。)ウィーンに行く機会があったので、思い切って、ブラチスラバまで足を延ばしてみました。と言っても、たった3時間、街の中をうろうろ歩いただけのあわただしい訪問でしたが。それでも、私にとっては、夢のような、エキサイティングな3時間でした。
冬の午後5時半ごろ(陽はすっかり落ちていました)から3時間ぐらいしか滞在することができなかったので、もちろん、テニス等を見る時間はありません。それどころか、何の予備知識もなく、地図も持たず、ただ、この街がスロバキアの首都であり、メシールの住む町であるという知識だけで、ウィーンからの電車に飛び乗ったのです。ブラチスラバ駅について、まずは両替屋に飛び込んだくらいです。実際には、スロバキアの通貨は今はユーロで(ちなみにオーストリアもユーロ)、両替の必要がなかったのですが、そんなことも知りませんでした。
ブラチスラバの中央駅は、これが一国の首都の中央駅かと言うぐらい小さく、なんとなく、越後湯沢の駅を思い出しました。(どうして越後湯沢を思い出したのか、自分ではよくわかりませんが。)
駅を降りて、3時間以内にここに戻らなくてはならないと焦る気持ちと、街の地図が全く分からなかったので、券売機で1ユーロのチケットを購入し(確か、1時間ぐらい有効なチケットだったと思います)、目の前に来た201という路面電車に飛び乗りました。今から考えても、無茶なことをしたものです。ただ、今回は、必ずしも観光地や名所旧跡を見たかったのではなく、メシールが暮らす街を見たかったので、市民と同じ電車に乗り、市民と同じお店に入ってみたかったのです。
ブラチスラバの街は、他の旧共産圏の街と同じように、質素で、暗く、人の笑い顔の少ない街でした。電車の中でも、街の中でも、人の話声すらほとんど聞こえず、楚々としている風情。街灯は暗く、街中がこの国がまだ豊かであるとは言えないことを如実に表していました。街には、日本人はもちろんのこと、アジア人すらほとんど見かけず、私は、明らかに目立っていたと思います。特に、201などと言う、全く名所とは関係ない方向のトラムに乗っているアジア人と言うのは、周りの人は、きっと「なんだろうか?」と思ったのではないかと思います。でも、それを表情にも出さない。そこが、いかにも、旧共産圏の国です。
時間が気になってきたのと、人気のない町はずれに行ってしまい心細くなってきたので、トラムを2,3度乗り換えて、街の中心の方に行こうとしていたときに、車内で、若い男性が近付いてきて、英語で話しかけてくれました。こういう親切さ、人懐っこさも、旧共産圏っぽい感じです。私が「街の中心、ダウンタウンに行きたいんだけど」と伝えたら、次の電停で降りて、5番(11番だったかも)に乗り換えて、ここで降りたらよいですよと教えてくれました。
そこで初めて、私はブラチスラバ城やミカエル塔のある旧市街地に行ったのです。そこで、街をぶらぶら歩き、写真を撮ったり(何枚か、このサイトに添付しました)、夕食を食べたりしました。
その後、中央駅に向かうトラムに乗り込み、午後8時47分発のウィーンに戻る電車にぎりぎり間に合ったのでした。また、いつか、来るだろう…今度は、ぜひ、メシールに会いたいな…と思いながら。
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