2011年8月8日月曜日

感動をありがとう

オリンピックで日本選手が優勝した時などに、よく、テレビなどで「感動をありがとう」という言葉を聞きます。

実は、正直に言うと、この言葉は、私にはかなり違和感がある言葉です。でも、どうしてこんなに違和感を感じるのか…。考えても、よく分からないのです。

もちろん、コートの上で素晴らしいプレーを見ると感動します。しかし、そこにあるのは、私に見せるためのプレーではありません。(プレーヤーは、私のことは知らないのですから。)

そこにあるのは、プレーヤーの自己表現としてのプレーなのです。私との間にあるのは、選手から私への片方向のコミュニケーションです。私から選手への感動を伝える方向は、本来はないのです。(もちろん、最近のインターネットコミュニケーションでは、ファンから選手方向へのコミュニケーションも可能にはなりましたが。)

選手は自分のプレーに満足し、観客はそれに感動して満足します。それでよいのだと思っています。そこにあるのは、ありがとうと言う感謝の対象とはどこか違うように思うのです。

李娜(Na Li)の全仏オープン2011決勝戦において、私は、李娜が伝統という大きな見えない敵と戦っている様子を見守りました。優勝の瞬間には、感動という言葉がぴったりの感情に包まれました。

その時ですら、「李娜、感動をありがとう」とは思わなかったのです。

選手とファンの間にあるモノは、一体なんなのでしょうか?今回は、答えにたどり着けませんでした。もう少し、いろいろと考えてみようと思います。

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